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二.二六事件 全貌(1936年2月26日)

「二・二六事件~最高機密文書で迫る~」

2019年08月15日 二・二六事件~最高機密文書

15日 NHKスペシャル「全貌 二・二六事件~最高機密文書で迫る~」二・二六事件~最高機密文書
2019年8月15日(木) 午後7時30分(73分)
2019年8月18日(日) 午前0時35分(73分)


8月15日のために書くこの記事の意義

悪名高い日本国「終戦記念日」がきょう8月15日である。

ポツダム宣言、1945年(昭和20年)7月26日にアメリカ合衆国大統領、イギリス首相、中華民国主席の名において大日本帝国(日本)に対して発された、全13か条から成る宣言である。正式には日本への降伏要求の最終宣言(Proclamation Defining Terms for Japanese Surrender)。宣言を発した各国の名をとって、「米英支三国共同宣言」ともいう。
他の枢軸国が降伏した後も交戦を続けていた日本は、1945年8月14日にこの宣言を受諾し、1945年9月2日に調印・即時発効(降伏文書)に至って第二次世界大戦(太平洋戦争)は終結した。ソビエト連邦は後から加わり追認した。

先日も明記したが、このnote上において、この関連記事を扱い掲示掲載するページは無いか、1.ないし2~5程度と思われる。それは時代趨勢として諦念されるが、知らなくていいこと、知らなければならないこと、この両者の違いは歴然としてある。

おそらく2029年(今から10年後)の今日に至っては、この2.26事件を扱うSNSは皆無と思われるので、せめて議事録として、ここにとどめておきたい。若い世代が多いこのネット上で近現代史を語ることの難しさはある。それを推して我田引水を許してもらおう。

つい先日、ある記事を読んでいて神社夜祭に出向いて屋台の「カブトムシ」を眺めながら「皇紀2679年」の旗が書いてあったと、記事にしていた。その記事筆者の意図するところは知るところではないが、カブトムシと皇紀2679年はどう取り違えても、意味付けされない項目であって、それが同一線上に表記されるこの日本史に疑問をいだくきっかけとなった。

そこにこんな意見を沿えた。「皇紀2679年」とはスマホで検索すればアッという間に解答され、詳細な記事が提供されるだろう。それを知れば日本史の半分は理解できると。

では、遺されたその半分とはなにか。それがこの2.26事件の解明と、それに拘わった青年将校(平均年齢30齢以下)の動向、それを阻止した陸軍・海軍の水面下の熾烈な攻防であったことは語られていない。

また、それを意図、画策した真の実行犯とは誰なのか、という伝記は数知れずあるが、そこには最大の欠陥があった。敵対していた欧米列強による主権争いのプロットがまったく描かれていない。どうしてだろうか、という疑問を提示するものがこれまで誰もいなかったという点で、それはさらに深層深度を深める事となった。日本ではその当時、ユーラシア大陸において「満州国」建国を目論んでいた重要な時代だったのである。

長い間タブー視されていた「原爆投下」論は、依然として正攻法で論じられていない。また、このような記事をかくこと自体が引喩失義となって誤解の対象とされてしまう。おそらくこれ以降もそうだろう。

原爆すなわち物理学上の核反応現象は、「原子力発電」の基本設計でもあり、永い間、未来型エネルギー源と考えられていた(というプロパガンダ)として国家挙げての推進事業だった。それは2011年(平成23年)3月11日に、いとも簡単に崩壊し、さらにその恐怖を全世界に知らしめたことは、周知の事実である。それて判明したことは、その事業展開によって莫大な利益と、その技術ノウハウを売ることでさらに持続するという鼠算式また自転車操業の典型スタイルだった。もし、と仮定してその3.11がなかったら、今でも福島原発は稼動していることだろう。

忘れてならないのは日本は地震大国でありまた、数知れない温泉鉱泉の地殻の上にある。古来よりそれを「豊葦原瑞穂国」と称して、温泉を堪能していた。もちろんそこには「イオウ」という毒も発散していて、さらに「金」鉱脈には硫化鉄鋼もふくまれており、さながらそれはレバノン杉の番人「フンババ」のように金(即ち巨木レバノン杉伐採)を守護していた。

物理科学全能の時代に、地下に埋蔵されている鉱物資源の性質を知っているのはごく限られた人々の専門領域だが、その固体の性質を誰が最初に知って分析したかである。

エジプトの歴史遺産には多くの金品があるが、中でも金細工の工芸品は、驚くばかりで、微細な彫刻など裸眼では到底ムリと思われる細工が随所に施されている。それは約3000年前の遺品というから言葉を失う。

そんなことから類推してわかることは、今の科学と同等のことを、すでに古代の人は知っていた、ということであり、石器時代の石貨幣を転がして遊んでいるわれわれは、その古代人の扱う「硫化鉄鋼」の猛毒に一瞬でやられてしまう。それと「原発」の人工的災害は版で推したような近似化として検証する必要があった。



岡田啓介首相の2.26事件                       回顧記録 岡田貞寛(岡田啓介次男)昭和52年秋 
岡田啓介回顧録 (毎日新聞 昭和52年刊 抜粋)下記に全部リンク

このたび毎日新聞社から、『岡田啓介回顧録』が再刊されることになった。
これは終戦間もない昭和25年に出版されたものに「部分修正を加え、父の日記の中のロンドン条約に関する部分の全文と、それに関する東北大学池田浦教授の解説が加えられている。
昭和25年に出た回顧録は、その前に毎日新聞に連載された「岡田啓介秘話」に若干の手を入れ、資料などをつけ加えて本にしたものである。
はじめ毎日新聞社から秘話の話を持ちこまれたとき、義兄の迫水久常と私は、受けるべきかどうかについてかなり議論した。働き盛りの45年間、父が身をおいた帝国海軍の伝統の一つは、サイレント・ネーヴィであった。
また、近い過去の歴史を語る場合、どうしても登場人物に対する評価が出てくる。
その中には現存の方もある。
他人、殊に海軍に籍を置いた人に対する批判を活字にすることは、明治生まれの父が承知するはずはなかった。しかし、昭和の激動期に海軍の長老として、宰相として、そして重臣として歩んで来た父が過去を語ることは、歴史の幾駒かの中で主役や脇役をつとめた父として、たとえそのことが非難されても、後世に残す義務があると考えた。
父はそのとき数え83歳、狭心症のあとで病床に臥していた。この機会を逸したら、もう残すことはできないかも知れない。はたして父は承知しなかった。迫水と私が辛抱強く説得してやっと納得させ、毎日新聞に返事をした。

「毎日」からは記者の新名丈夫さんと古波蔵保好さんのお二人が、この気の長い仕事にとり組まれた。何分かなり記憶力が薄らいでいるので、正確なことを細かく聞き出すには、相当の準備が必要だった。
「これこれの問題についてうかがいたいんですが……」と切り出せば、判で押したように「さあ、覚えておらんなあ」という答えが返って来た。
しかし新名さんたちが、古い新聞や文献などのほか、事件別に関係者の参集を乞い、当時の状況を丹念に調べ上げて、あれこれと雑談しているうちに、「うんうん、それは……」と驚くばかり詳細な記憶が鮮明によみがえり、次から次へと回顧談が続くのだった。
記憶を呼びおこす緒口が必要であり、このために厖大な予習が必要だった。
「秘話」は毎日新聞の夕刊に連載されたが、原稿が校正刷で届けられてくる、父は必ず目を通して、日付の誤りなど注意深く訂正した。
昭和が50年代に入った機会に、毎日新聞社が昭和史の編集を企画したのは、激動の半世紀を顧み、歴史の総括をすることが、言論機関の使命と考えたからだというが、その一つとして「岡田啓介回顧録」がとり上げられたことは、同じく海軍に職を奉じた私にとって嬉しいことである。
軍縮条約に関する父の日記の全文を今度新たに併載したのは、ロンドンで米英と折衝していた全権からの請訓を受けて、軍令部と海軍省、軍令部と政府が対立の様相を来たし、野党政友会の倒閣の思惑もからんで、浜口内閣の命運を左右するかという段階まで行ったのだが、その渦の中にいて苦心してとり纏めた父が、経過を克明に記した唯一の日記ということで、歴史的に価値ありと考えられたからであろう。
父には、律気で几帳面な一面と、私生活ではかなり無精な面とが同居していた。詳細な日記をつけていたのは前者の方に属する。父は厚手の大学ノートに、細かい字でびっしりと書いていた。昭和2年から始まった日記は戦争末期までに20数冊に達していた。
皆が空襲で焼けるときに、うちだけ家財が残っては申し訳ないと、一切の疎開を禁じた父が日記だけは護衛の警察官の宅に疎開した。
何か見たいことがあってそれを取りよせたのだと思うが、24年4月の東京空襲で悉く烏有に帰した。
さぞ残念だったろうと思う。

ところが解説の冒頭にあるように、ロンドン軍縮条約関係の一冊だけが、奇蹟的に残ったのである。
再刊に際して、日記については池田浦教授の解説が新たに加えられた。初版の昭和25年ごろは、ほとんどの読者がロンドン条約というものを知っていたし、登場人物も大部分はご承知だったと思う。
しかし50年近い時の流れによって、今は年配の方か特殊の研究室以外は、あまりご存知ないのではなかろうか。

海軍の後輩であり、専門に研究しておられる池田教授の解説が付けられたのは時宜に適したことだと思う。
陸軍が皇道派と統制派の二派にわかれ。相反目して派閥人事が盛んであったのと同じように、海軍にも条約派(当時親英米派とも呼ばれた)と艦隊派(強硬派)にわかれて、派閥抗争に明け暮れていたように思っている人もいるようだ。
回顧録も触れているが、ロンドン条約のころ、横須賀の料亭「小松」にかけてあった父の揮毫の額を、池の中にほうりこんで快哉を叫んだ青年士官もいたし、心情的には強硬派と同意見でありながら、大局的見地から妥協案で行くよりほかなしと主張した有為の提督等が、ほとんど予備役に編入されたという事実もある。
しかし、「思想善導」という表現を使った少壮士官に対する指導は、かなり徹底していたように思われるし、だから――といっては語弊があるかも知れないが――性格も、兵力使用という点でも、五・一五事件とは全く異質ではあったが、二・二六事件には海軍は参加していない。
 むしろ事件後いち早く派遣された特別陸戦隊や、大阪湾から急濾東京港に回航した連合艦隊から、叛乱軍を断固討てという声が高かったのである。(一部抜粋記事)


『二・二六事件』とは? 青年将校の掲げた昭和維新
https://benesse.jp/contents/history/ninirokujiken/
今から約80年前の1936年2月26日、陸軍の青年将校等が兵約1,500名を率い大規模なクーデターを断行しました。それが『二・二六事件』です。このとき高橋是清(たかはしこれきよ)、斎藤実(さいとうまこと)など首相経験者を含む重臣4名、警察官5名が犠牲になりました。事件後に開かれた軍法会議では、「非公開、弁護士なし、一審のみ」で、刑が確定しました。主謀者の青年将校ら19名(20~30代)を中心に死刑となり、刑はすぐに執行されました。                                この事件の背景にはいったい何があったのでしょうか。(記事冒頭)


【満州国】日本が満州事変によって占領した中国東北部(現在の黒竜江省・吉林省・遼寧省・内モンゴル自治区北東部)につくりあげた傀儡かいらい国家。1932年(昭和7)、もと清朝の宣統帝溥儀ふぎを執政に迎え(34年には皇帝)、中華民国から分離させて建国。1945年閉国。2.26事件首犯生存者青年将校(平均年齢30齢以下)のほとんどは、ここに送りこまれた。


1936年2月26日.「2.26事件」の隔年


岡田啓介首相の2.26事件岡田啓介回顧録 (毎日新聞 昭和52年刊 抜粋)




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