『洗脳からの目覚め』
「良い子」「大人しい子」「手のかからない子」…私は幼い頃からそう言われて育った。
親の言う通りにしていれば人生は失敗しないし、自分であれこれ考えるよりも遥かに楽だ。だから学校は親の決めた名門中学校に進学した。幸い勉強は出来たから、特に苦労することなく入学出来た。そのままエスカレーター式に大学生となった。
友達は必ずと言っていいほど親とぶつかる時期があったそうだ。だが私には理解出来なかった。我を通しても、最終的には親には適わないのがなぜ分からないのか。人生の大先輩なのだから、親の言う事を聞いていればまず間違うことはないのに。
そんな私にも、大学生になって初めての彼氏が出来た。もちろん私からではなく彼から言い寄られた。人を愛することがどういうことはよく分からなかったけど、何となく付き合い始めた。
彼氏が会いたいと言えば多少無理をしてでも会ったし、デートコースを決めるのはいつも彼だった。特に行ってみたい所はなく、彼の言う通りにしていた方が楽だった。
3回目のデートは夜景の見える場所に行った。そして初めてキスをした。その流れでホテルへ―。
初めてで何も分からなかったが、彼がリードしてくれた。少し痛かったが、嬉しさの方が勝っていた。こうして女になるのだな、と思った。
私は幸せの絶頂にいた。彼とデートを重ね、愛を深めて行った。だが少しずつ彼は私に注文を付けるようになっていった。
始めは服装だった。ミニスカートやノースリーブのワンピースを着るよう言ってきた。おかげで脱毛サロンに通う羽目になった。私の好みはどちらかと言うと中性的な服装で、あまり女の子らしい服装は好きではなかった。けれど彼が喜んでくれるのならと、望みを叶えてあげた。
営みも彼のしたい時にするようにした。正直気が乗らない時もあったが、それでも彼に体を預けた。それが私の幸せだったから―。
だが、彼の要求は次第にエスカレートしていった。夜中に呼び出されることもあった。それでもそれが彼の幸せであり、私の幸せでもあると信じて疑わなかった。
そしてある日。彼にこう言われた。
「なぁ、そろそろその髪型にも飽きてきたな。」
「そう?私は気に入っているわよ。」
ストレートのロングは私のお気に入りだ。よくポニーテールにしていたし、時間がない時は一つに結べばいい。
「俺は美鈴の短い髪型が見てみたいな。」
「短いのってどれぐらい?」
「このぐらい」そう言って首筋に手を入れ、ハサミで切るように手を動かした。
「そんなに?それっておかっぱ?」
「ボブだよ。」
おかっぱとボブの違いがよく分からない。
「う~ん、あんまり切りたくないなぁ。」
「絶対似合うって。俺が保証するから。」
「そう?本当にそう思っている?」
「ああ。美鈴は美形だから似合うって。」
この時はまだ気づかなかった。彼は私を愛しているのではなく、ただ私を自分の思い通りに支配したいだけなのだと…。
「そうかなぁ。じゃあ切ってみようかな…。」
「よし!よく言ってくれた。今から切ろう!」
「え…!?今からって?まさか雄也が切るの?」
「そうだよ。ちゃんとハサミとケープを持ってきたから。」
「いや、そういう問題じゃなくて大丈夫なの?髪の毛を切ったことなんてあるの?」
「きちんと動画を観て勉強してきたから大丈夫。」
「それって切ったことないんでしょ!?」
「いいからいいから。ほらここに座って。」
有無を言わさず椅子に座らされ、ケープをかけられた。なんか怖い…けど雄也だからいいか…。
「変な風にしないでよ…。」
「大丈夫だって。もし失敗したら美容院で直してもらえばいいから。」
失敗されたら困る…でも雄也が喜んでくれるならいいかな…。
始めにブロッキングをしてくれたが、この時点で苦戦していた。嫌な予感しかない。でも何とかブロッキングを終え、いよいよハサミを入れた。
ジョキジョキ…と鈍い音を立てて、私の髪がバッサリ切られた。なんだかたくさん切られている気がする。どうなっちゃうんだろう…。
少しずつブロッキングした髪を解いては切っていく。動画を観ただけあってそこらへんはきちんとしている。
後ろの髪を終えてから、横の髪に移る。後ろのラインに合わせて切っているようだ。でも彼の顔が冴えない。うまくいっていないのだろうか。
前髪も作った。まだこれだけ切る髪があったのかと驚いた。眉のあたりで揃えた。
どうにか完成したが、やはり素人が切ったものだから、後ろも横も不揃いだった。
「これ以上は止めた方がいいな。やっぱり美容院に行こう。」
「始めからそうすれば良かったのに…。」
「俺、一度美鈴の髪をバッサリ切ってみたかったんだ。いいじゃないか、もう切っちゃったんだから。」
そう言われてしまうと何も言い返せなかった。仕方なく美容院に行った。
「どうしたんですか?」開口一番美容師に言われた。
「彼氏に切ってもらったんですが…そんなにひどいですか?」
「…まあねぇ…。」
「何とか綺麗にして下さい。」
「分かったわ。今より短くなるけどいい?」
「はい。お願いします。」
サクサクと切られていく。やはりプロは違う。しばらくすると、ショートボブにされていた。後ろを整えるためにバリカンで剃られた時は、くすぐったくて思わず首をすくめた。
「よし、完成!もう彼に切らせちゃダメよ。」
「ありがとうございました。」
家に帰って鏡を見た。初めてのショートボブ。これはこれでいいかもしれない。でも私、髪を切りたかったんだっけ?頭をもたげた疑問が解消しないまま、ふいにゴミ箱を見ると、大量の髪の毛があった。
こんなに切られちゃったんだ…これで良かったのかな…きっといいんだ…。自分にそう言い聞かせていた。
翌日。親友の喜美江とランチをした。当然髪のことを聞かれた。
「どうして切っちゃったの?あんなに似合っていたのに。美鈴だってロングが好きっていつも言ってたのに。」
そこで事情を話した。
「ふーん、美鈴はそれでよかったの?」
「うん、まあね…。まだ短いのに慣れないけどね。」
「美鈴がいいならいいけど…。」喜美江は何か言いたそうにしていたが、私はすぐに話題を切り替え、ランチを終えた。
その日も雄也と会った。開口一番「可愛い!」と言って頭を撫でてくれた。それでモヤモヤも吹っ飛んだ。やっぱりこれで良かったんだ。
数か月が経った。行為が終わり、私の髪を撫でていた雄也は思いがけないことを言った。
「なぁ美鈴、そろそろ髪を切らないか?」その頃にはショートボブにした髪も伸びてきていた。
「私はやだなぁ。また伸ばしたいんだ。」
「でも美鈴にはショートの方が似合っているよ。」
「本当に?」
「ああ。今度はもっと短くしてみないか?」
「もっと短くってどれぐらい?」
「ベリーショート。」
「ベリーショートって…耳も出すの?」
「ああそうだよ。」
「そんなに短くしたことないのよ。私に似合うかなぁ。」
「俺が似合うって言うんだから、間違いないって。」
「そう?」
「ああ。今度の日曜日、一緒に切りに行こうよ。」
「そうね…雄也がそこまで言うんならいいかな…。」
「じゃあ決まりだな。」
本当はもう切りたくなかった。髪を切った時の友達の反応は微妙だったし、やっぱり私はまた伸ばしたい。でも…雄也がああまで言ってくれるんならいいか…。
この時も私は自分で物事を決められなかった。自分の意見を通すより、誰かの言う通りにしておいた方が楽に決まっている。
迎えた日曜日。雄也の運転で連れて行かれたのは、どこからどう見ても床屋だった。
「え?まさかここで髪を切るの?」
「ああそうだよ。床屋は初めて?」
「女の子なんだから当たり前でしょ。それにどう切られるか分からないから怖いわ…。」
「大丈夫だよ。俺に任せておけば。ほら入って入って。」
無理やりお店に入らされた。
先客は高校生ぐらいの子だった。理容師はバリカンを準備している。まさかと思ったら、前髪からバリカンを入れ始めた。
男の子はぐっと唇を噛みしめている。野球部にでも入るのだろうか。サラサラの髪が次々にバリカンで刈られていく。ものの5分で青々とした丸坊主になっていた。
「すごいな…。」ふいに雄也がつぶやいた。
「なんか可哀そう…。」
「美鈴もやってみるか?」
「嫌よ。坊主なんて。絶対に嫌!!」
「あはは、冗談だよ。」
私の番が来た。てっきり雄也がカットするものだと思っていた店主は、私が座ったものだから驚いていた。
何やら雄也が店主に話している。「そんなに切ってもいいんですか?」と聞こえてくる。そんなにって?何を話しているの?
「今おじさんにどれ位切るか話しておいたよ。美鈴からは何も言わなくていいからな。」
「そんな…どうされちゃうの?」
「それは切ってからのお楽しみ。」雄也は待合に戻っていった。
「お嬢さん、よろしくお願いします。」
「あ、はい…。」
「彼氏の好きな髪型にするんだってね。」
「えっ?…。」
「多少嫌がっても気にしないでやってくれって彼氏に言われたから、遠慮なくやらせてもらうよ。」
「…」
怖い…けどここまで来てしまったら、今更席を立つ訳にはいかない。そんなに変な風にはされないはず…自分そう言い聞かせていた。
伸びた髪にハサミが入れられた。ザクザクと小気味良い音を立てている。思っていたよりも短く切られてるみたい…。そう言えばベリーショートって言っていたっけ。
やがて耳を出され、後ろは襟足にハサミが当たった。なんだか男の子みたいだ。そして主人はハサミを置いた。これで終わりかとホッとしていると、先ほど男の子を丸坊主にしたバリカンを取り出した。
バリカンなんかで…どうするの?…まさか…そう思っていると「少し下を向いてね」と言われ、頭を抑えられた。何がなんだか分からないまま従うと、バリカンが襟足に入ってきた…!!
髪が引きちぎられているような…これはまさか…刈り上げ…嘘、嘘でしょ?刈り上げなんてしたくないのに…でもバリカンは止まらない。上に向かって刈られているのが分かる。逃げようにも頭を抑えられているから出来ない。初めてのバリカン。髪が刈り上げられる感触。泣きたくなった。
「ちょっと…止めて下さい!」私はそう叫んでいた。しかし
「大丈夫。もう少しで終わるから」と言い、バリカンは止まらなかった。
ベリーショートと聞いた時、もちろん短くされることは覚悟していた。でもまさか刈り上げなんて…運動部の子みたいにされるなんて…涙は必死に堪えた。
ようやくバリカンが終わるとシャンプーをされた。短くなった髪を男性の大きな手で洗われるのが、すごく恥ずかしかった。
ドライヤーをかけるが、ショートボブの時よりも短い時間で終わった。鏡を見せてもらい絶句した。後ろの髪がない。青々と刈り上げられている…こんな髪型にされるなんて……。
無言になった私を見て、雄也はひたすら可愛いと言ってくれた。そのままホテルに直行したが、あまり濡れなくて痛かった。途中何度も刈り上げられた襟足を撫でられて恥ずかしかった。
家に着いて鏡を見た。やっぱり短いままだ。本当にこれで良かったのだろうか。でも雄也が喜んでくれるんだし…自分にそう言い聞かせていた。
翌週からは夏休みで授業がなかったから良かった。でも喜美江とランチをする約束をしていた。本当は会いたくなかったけど…。
会うなり喜美江は驚いた。
「ど、どうしたのその髪?そんなに刈り上げちゃって…。まさか彼と別れたの?」
「ううん、違うの。彼のリクエストでこうなっちゃったの…。」
私は事の次第を話した。次第に喜美江の顔が強張っていった。
「それで美鈴は本当に幸せなの?」
「うん…幸せよ…。」
「本当に?ならばなんでそんな顔するの?笑顔が全くないよ。」
「…。」自分では笑顔で話しているつもりだったのに。
すると喜美江はおもむろに一冊の本を取り出した。
「これ、読んでみてよ。」その本のタイトルは【脱・洗脳 洗脳の手法と逃れる方法】
「洗脳?」
「そうよ。美鈴は明らかに彼に洗脳されているのよ。」
「そんなことないわ!」
「じゃあ聞くけど、その髪型は美鈴の意思?」
「そうじゃないけど…。」
「言わせてもらうけど美鈴はね、なんでも他人の言いなりなのよ。自分の意思というのがまるで感じられない。親の言う通りに人生を歩んできて、今は彼の言いなりでしょ。きつい言い方をさせてもらうとね、美鈴は自立していないのよ。」
「そんな…。」
喜美江に言い返そうと思ったが、見事に図星を突かれて何も言えなかった。喜美江と喧嘩はしたくないので、その日はそのまま別れた。
家に着いてすぐに喜美江から借りた本を読んだ。自分に当てはまることばかりだった。途中で読むのが嫌になったが、我慢して読破した。
確かに振り返ってみると、進路を始め、私はほとんどのことを他の誰かに決めてもらってきた。その方が楽だからだ。我を通して失敗する友人を見てきていたからこそ、安全な道を選んできた。それで今幸せなのだからいいと思ってきた。
だがそれは即ち、誰かの言いなりになることでもあったのに、今になってようやく気づいた。そこに自分の意思はない。誰かの意思しかない。
雄也は自分で決められない私を見抜いて、私を自分の好きなように操っている。したい時は私の都合を聞かずにやったし、何より髪型がそうだ。
そもそも私はこんな髪型にはしたくなかった。ロングが好きなのに、気づいたら刈り上げのベリーショートになっていた。床屋に入ること自体あり得ないし、バリカンなんて私には縁がない物だった。
これではいけない。自立しないといけない。
夜も寝ずに考えた。そして答えが出た。自立の第一歩として、彼と別れよう―。それも普通に別れるだけではダメだ。もう2度と私に振り向かないようにしないといけない。
そのためには…この髪を何とかしよう。彼の洗脳の象徴でもある髪。雄也の言いなりになって、切りたくもない髪をバッサリと切られた。それどころかバリカンで刈り上げにもされた。
こうなったら逆にもっと切っちゃおう。刈り上げよりも切るのは…あれだ。丸坊主だ。あの男の子みたいに丸坊主にしよう。やった後はウイッグを被れば良い。
これは雄也と別れるためだけではない。他人任せの人生を歩んできた自分との決別でもある。自分の意思で丸坊主にすることは、今までとは違った、自分で選択する人生の第一歩だ。
でも…バリカンで丸坊主にされるのは正直怖い。この前は後ろの髪で済んだが、丸坊主となると、床屋で見た男の子みたいに全部の髪を刈られる。耐えられるだろうか。丸坊主なんて一度もしようと思ったことがない。それに女の子で丸坊主なんて見たことがない。どうなっちゃうんだろう…。
鏡を見て髪をかき上げてみても、丸坊主のイメージが沸かない。バリカンは痛くないのだろうか。そもそも女の人がやってもらえるのだろうか。女の人が丸坊主にされる動画を観てみたが、すぐに怖くなって止めた。
けれどやらないといけない。怖がっていては前に進めない。鏡の前で私は決意した-。
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