『前髪の悲劇』

 大学4年生の一花は、就職活動が上手くいっていなかった。名のある大学でもないし、これといった資格も持っていない文系の学生である一花は、採用試験を受けては不採用の繰り返しで、もうフリーターでもいいかなと、半ば諦めかけていた。
 そんな折り、内定辞退者が出たという理由で、以前最終面接で落とされた会社から声がかかった。もちろん断る一理由は一つもない。二つ返事で入社を決めた。
 一花が当所希望していた総合職ではなく、一般職での採用だった。しかし研修で、頑張り次第では総合職への道が開けると聞き希望が出てきた。ここで頑張ろう。なんとしてでも総合職に行き、出世しよう。

 新人研修が終わり、初めに一花が配属されたのは営業部だった。人と話すことが苦ではない一花は、営業も決して嫌な仕事ではなかった。

 しかしその初日。まさかの出来事が起きる。

 指導してくれるのは先輩社員の平野さん。女性で営業成績もトップ3に入る人と聞いた。その人が会うなりこう切り出した。

 「あなた、その前髪じゃだめよ。長すぎてだらしない印象を持たれてしまうわ。営業はまず第一印象が大切なのは当たり前でしょ?もう学生じゃないんだから、そのぐらいはきっちりとしてよ!」
 いきなり叱られてしまった。確かに入社後忙しく、髪型にまで気が回っていなかった。
「すいません。今日の仕事の後に、美容院に行きます。」
「何言ってるの?これから私と外回りよ。今すぐにトイレでその前髪を切ってきなさい。眉が出ないと駄目よ。」
「ええっ?今すぐですか?」
「そう。今すぐよ。何度も言わせないで!」
「…分かりました。すぐに切ってきます。」
 前髪ぐらいならいいか…そう思い、ハサミを手にトイレへ行った。鏡を見ながらいざ前髪にハサミを入れたその刹那、急に縦揺れの地震が起きた。

 ジャキッ!!

 予定よりもかなり上で切ってしまった。地震はすぐに収まったものの、不格好な前髪が残された。
 どうしよう…こんなの恥ずかしい。なんであの時地震なんて起きるのよ!あぁ……。
 髪をいじって何とかしようとしたものの、もはやどうにもならなかった。途方に暮れていると、平野さんが来てくれた。
「地震、大丈夫だった?」
「ええ。大丈夫です。」
「!?その前髪、どうしたの!?」
「実はさっきの地震で手元か狂ってしまって…」
「何とかならないの?」
「はい、残りの髪を下ろしても上手くいきません…。」
「そんな髪じゃ恥ずかしくてお客さんの所に行けないわ。仕方がないから今日は連れて行かない。帰りに美容院で、その前髪に合わせて切ってきなさい。」
「はい…。」
 
 切らないとだめなのか…前髪に合わせると、どれぐら切られるのかな…。こんな形で髪を切る日が来るなんて。なんか嫌だなぁ。

 その日はみんなにどう見られているか、その事ばかり気になった。早く何とかしなくては。

 会社を退社後、美容院を探したが今日は火曜日。どこも開いていなかった。時間は夜7時近くになっていた。今から電車に乗って遠くに行く時間はない。とにかく何でもいいから髪を切ってくれる所を探さないといけない。
 ふと床屋が目に入った。床屋にはもちろん一度も入ったことがない。バッサリと男性のように切られはしないだろうか。そもそも若い女性が入ってもいい所なのだろうか。でも四の五の言っていられない。そこで迷いを振り払い、思い切って入ってみた。

 受付は女性だった。もし理容師さんだったら、この人にお願いしたい。男性の理容師さんだと、お洒落に切ってくれないのではないか。
「今日はどうされますか?」
「カットをお願いします。あの、理容師さんですか?」
「ええ、そうですよ。」
「あなたにお願い出来ますか?」
「いいですよ。少しお待ちいただければ私が担当致しますよ。」
 優しそうな人だ。この人ならば私の気持ちも分かってくれるだろう。
 
 順番を待っている間、一花はソワソワしていた。これから髪を切らないといけない。この短い前髪に合わせると、どんな風に切られてしまうのだろう。ショートにしないといけないのだろうか。
 その間、何人かの男性が髪を切っているのを見た。中にはバリカンで丸坊主にされているおじさんがいた。初めて間近で丸坊主にされるのを見て、鼓動が高まった。バリカンが通ると、黒い髪が根こそぎ刈られて地肌がむき出しになった。バリカンってすごい…ああやって丸坊主にされるんだ…。
 
 そして一花の番になった。ドキドキしながら椅子に座り、ケープをかけられた。美容院のケープとは違い手が出ない。もう逃げられない、そんな気分になった。
「お待たせしました。春香と申します。よろしくお願いします。今日はどのようにカットしますか?」
「あの、ちょっとしたトラブルで前髪を短く切ってしまって…この前髪に合うようにカットしてもらえませんか?」
「それは大変だったわね…。確かにちょっと短かすぎるわね。そうね、この前髪に合うのは…ベリーショートですね。ボーイッシュにすれば、前髪が短いのも気になりませんよ。」
「!ベリーショート…そんなに切らないといけないですか?」
「普通のショートだと、まだ前髪に違和感が残るわよ。耳を出して、全体的に短くしないとね。ベリーショートにはしたことないの?」
「ええ。ボブはしたことがありますが、それ以上短いのはないです。似合っていなかったら嫌だなと思って…。」
「じゃあいい機会だから、一度はチャレンジしてみたら?ベリーショートはシャンプーやセットにも時間がかからないし、慣れると便利でいいわよ。それにお洒落だし。」
 一花はそれまで、基本はロングだった。バッサリ切るのは勇気がいるし、失敗したら嫌だったから、という理由だ。一度だけボブにした時も、切るまでにかなり迷った。そんな一花だから、ベリーショートなんてしようなどと思ったことは一度もなかった。
 しかしこうなってしまったら、春香さんの言う通りにバッサリと切るしかない。薄々覚悟はしていたが…。しばらく考えて一花は
「ベリーショートでお願いします」と言った。

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