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7.8 中国茶の日・ナンパの日

「ボクとお茶飲みませんか?」
駅前通りが混んでいたので、慌てて路地裏に入ると、そんな台詞で男にナンパされた。

男は翡翠色の光沢がある中華服に身を包んで、艶のある長い黒髪を後ろで一つに三つ編みをし、縁の細い丸眼鏡をかけている。
「すいません、急いでいるので」
怪しい壺でも売りつけられたら敵わない。
男は諦めずにニコニコしながら、僕の前に立ちはだかった。
「大丈夫です。お兄さんあれデショ?好きな女の子と待ち合わせ。でも遅れそう。ゆっくり行っても同じよ、だって女の子そこに居ないから」
僕はハンカチで汗を拭いながら目を剥いた。
「はあ?何ですって?」
男は「だからボクとお茶飲みましょ。オープン記念価格、特別サービス」と言って道を譲らない。
手を引いていきそうな勢いの男を何とか振り切って、僕は路地裏を走り抜けた。
「何なんだ、一体…っ」

しかし待ち合わせの大型ショッピングモールに着いた僕の前には、確かに女の子は現れなかった。
電話には出ないし、メッセージも返ってこない。二時間待って、僕は絶望的な気持ちで家に帰ることにした。

下を向き肩を落とす僕の背中を叩いたのは、またあの中華服の男だった。
「あんた…」
「お兄さんよく粘ったネ〜、二時間あれば映画見れるね。喉かわいたデショ?お茶飲もよ」
ナイフで切ったような細い目の奥の瞳は笑っているのか分からない。
ただ大きな口だけは、赤い三日月のように笑った形を崩さない。
僕は気味が悪くなってまた断りの理由を考えていたが「もう予定ナイデショ。家に帰っても寂しくなるだけよ?気分転換大事だから」と路地裏にある店まで強引に引っ張っていかれてしまった。

その店は入り口に赤い角燈が吊るされ、オレンジ色の灯りが木目が美しい看板に彫られた屋号を浮き上がらせている。
「無言堂」
僕が思わず呟くと、それは中国を出るときにお爺さんからもらった屋号なのだと男が応えた。
「ボクがあまりに人懐こくてお喋りだから、お茶を楽しむお客さんに失礼にならないように黙っとけて事だったヨ。余計なお世話サマだけど、面白いからそのまま付けたんだ」
灯りはいくつか置かれた角燈しかないのか、店内は薄暗く、奥がどうなっているのかは闇に沈んで良く見えない。
アンティークのような装飾の施された中国風のテーブルセットが並び、店の中央には四角く背の高い台座の上に丸い金魚鉢が飾られているのは分かった。
僕は何かあったら逃げられるように、ドアの近くの席に座ろうとしていたのだけれど、男に背中を押されて結局一番遠い角の席に座らされた。
鮮やかな牡丹の花の刺繍が施された椅子の座面が思いがけず柔らかく僕の尻を包んだ。
「まだメニュ作ってないから、お任せでいいネ?」
そう言うと、男は鼻歌を歌いながら店の奥に消えていった。
「お爺さんの忠告、全く活きてないな」
変なことに巻き込まれてしまった。
僕はポケットから携帯電話を取り出して見たが、女の子からの連絡は入っていなかった。

無音の店内にパラパラと音がし始めて、僕は窓の方を眺めた。
窓にはステンドグラスの龍と朱雀が嵌っていて外の様子は見えないが、路地裏を歩く人たちの足が早まった影が見えて雨を知る。
「もういいや。雨宿りだと思おう」
机に突っ伏して、することもないので金魚鉢を眺めることにした。

赤い金魚と白い金魚、それに黒い出目金が透明な光の中で回っている。
立派な金魚鉢だが、装飾はなく水草なども入っていない。
どういう仕組みか、台座のところから金魚鉢の中央に細かい泡が噴き出している。

「金魚、綺麗デショ?ボク金魚大好きなんだ」
びくりと肩を震わせたくらいで、声は出なかった。
縁に細かい飾りの彫られた盆に茶器を載せた男は、いつの間にか僕のすぐ横に立っていた。

「あ、座るんですね」
男は茶をサーブしてくれるのかと思いきや、二人の間に盆を置いて反対側の椅子に座った。
「ソウだよー?だってボク最初に言ったよね?一緒にお茶しませんカって」
ふふ、と笑うと垂らした三つ編みを肩から前にかけて、男は清明と名乗った。
「あ、僕は…」
「知ってるから大丈夫ヨ」
「え?」
清明は熱くないのか、愛おしむように光沢のある土色の茶壷を撫でながらそう言った。
そして、隣にあったポットからその茶壷へと湯をかける。
ぶわりと湯気が広がり、向かいにいる清明の顔が滲んだ。
慣れた手つきで茶壷の中身をピッチャーのようなものに入れ替えると、それをグラスに均等に注いでいく。
種類やなにかは分からないが、湿度の高い部屋にお茶の爽やかな香りが広がって、鼻孔をくすぐるその香りに、僕は思わず肩の力が抜けて、ほうっとため息を吐いた。

「どうぞ、召し上がれ」
清明が長い指でツイ、と茶碗を差し出してきたので、僕は思わず頭を下げて熱い茶碗に息を吹きかけた。
一口飲むと、するすると喉奥に落ちていく。引っかかりが無く、まろやかな烏龍茶と言った味だ。

ステンドグラスの窓の外で降る雨の音。
金魚鉢の中、泡と遊び翻る金魚。
薄暗く湿度の高い、少し肌寒い店内。
木々の香りと、茶葉の匂い。
そして、静かに自分の淹れた茶を楽しむ清明と言う名の男。
無言堂という名に相応しい、どこか異世界めいた時間が流れた。

茶を飲み終わった頃に、ちょうど雨音が止んだ。
「雨、止んだみたいネ」
清明が口を開いた頃、雲間から差し込んだ光が龍の鱗を透過して、店内を明るく照らした。
それは見る間に範囲を伸ばし、やがて清明の指を、中華服の肩を、そして滑らかな頬と、丸い眼鏡の硝子を浮かび上がらせた。
その細い目の奥の瞳が翡翠色に光るのを見て、僕は息を呑んだ。
「あなたは、一体?」
清明はいたずらに笑うと、「ただの、オニイチャンですよ」と首を傾げた。
「オニイチャン?…誰の?」
僕は混乱した。
その様が余程面白かったのか、ひとしきり笑った後でこう言った。
「あなたの好きな女の子ですよ。ま、義理の兄ですが」
「え?…え?」
僕はもっと混乱した。

晴れ間が広がって、店内はもっと色鮮やかに輝いた。
僕は金魚鉢のなかの金魚みたいに口をパクパクさせるばかりで、これから始まる不可解な夏の予感にそれこそ泡を吐く勢いだった。



7.8 中国茶の日、ナンパの日
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