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7.7 七夕

僕は嘘つきだ。
愛だの恋だの流行りだのに乗っかったネーミングをつけた香水を調香して売っているが、本当はそんな事をしたい訳じゃない。
それを一生懸命、人が喜ぶならいいじゃないかと誤魔化して数年が経った。

「いらっしゃいませ」
リネンの白シャツにチノパン。淡いデニムの男性用エプロンという自分で決めた制服を着て、僕は今日も自分の店の店頭に立っている。
最近では、香りにこだわる男性も増えてきたので存在を認められてきたが、そもそもいい香りのする男性自体が昔は少なかった。
僕は思春期くらいからずっといい香りが好きだったのだが、両親はそれを少し心配した目で見ていた。
石鹸とフローラルくらいしか知らない男子の中で、僕はやたらと香りの種類に詳しかった。
香水売場で何時間も香水を試し、それぞれの特徴をメモして帰り、模造紙に一覧票を作ったりしていた。
金が無いので香水を買えなかった僕は、ドラッグストアのテスターを嗅ぎまくってボディソープのお気に入りを探し、自分用に買うことくらいが精一杯の香りの楽しみ方だった。

気持ち悪いね、とは高校で隣の席になった女の子に言われた台詞だ。
それはお年玉で買った女性向けの香水を軽く振っていたことに関してなのか、週末の予定は一人での香水屋巡りだと言ったことか、ボディーソープの匂いをかぎ分けられると鼻高々に自慢したことに関してなのかは分からない。
ただ僕は、髭の生え始めた高校生男子が匂い好きであることは、恥ずかしくおかしな事なのだと打ちのめされたのだった。
女子のみならず一部の男子にも、あいつに近づくと匂いを嗅がれるぞ、と噂され、ただでさえ人見知りで友達のいなかった僕はますます孤立していった。
もっと普通に、サッカーとかゲームとか、そういう趣味であれば良かったのにとその頃の僕は、僕の嗜好を心から憎んでいた。
でも、やはり麻薬のような多幸感をもたらしてくれるいい匂いから離れることは出来ず、僕はどんどん香りの世界に沈んでいった。

大学を卒業して、金融関係の仕事に就いたものの三年で辞めることになった。
その会社は、というよりその時代は、どの会社もそうであったが、会社に香水をつけていくなどということは許されていなかったのだ。
空気の循環しないオフィスで、珈琲と中高年のおじさんの匂いと煙草の残り香に囲まれる生活。
少なくともあと三十五年近くもそんな生活を強いられると考えただけで、僕は毎日帰り道に涙が出た。
終身雇用が当たり前の時代だった。
僕はとても怖かったが、足を震わせながら書いた辞表を、全身を石のように硬くして上司に提出した。

人生が一度きりなら、いい香りに囲まれてほとんどの時間を過ごしたい。
これが、僕の心からの願いだった。

それを決心したのが七夕の日だったので、僕は折り紙で短冊を作り、そこに「香水屋になって毎日いい香りに包まれて生涯を終える」とマジックペンで書き込んだ。
アパートのカーテンレールに一晩吊したあとは、目標を忘れないように大事に手帳にしまっていた。

それからの僕は、退職金を全て使って海外に留学し、香水調香のノウハウを学んだ。
それほど長く勤めていなかったので、退職金はすぐに底をついた。
それからは親に金を借りたり、アルバイトをしたりして何とか食いつないで勉強を続けた。
日々のお金が無いことは確かに不安でピリピリと僕の神経を苛んだが、毎日目新しい発見があること、香りの世界と直に関われることは僕にとっての喜びであり、会社を辞める時ほどの恐怖が襲ってくることは一度もなかったのを覚えている。

僕は日本に帰国すると、知らない街で小さな香水屋を開いた。
紆余曲折はあったものの、時代の後押しもあって顧客が増え、数年で広い店舗に引っ越した。

引っ越しとともに欲が出たのだろう。
今の僕の店では、愛だの恋だの流行りの言葉だの、そういうものにあやかった名前の香水ばかりが並んでいる。
僕自身が、万人に受けるように、プレゼントに使いやすいように、そんなことばかりを考えて調香するようになった。
SNSの台頭もあり、一見の客は増えて利益も上がったが、常連の顧客は首を傾げて帰ることが増えた。

僕は、薄々分かっていた。
いい香りではなく、売れそうな香りばかりを作って売っていることに。

僕は嘘つきだ。
僕の願いは「香水屋になって毎日いい香りに包まれて生涯を終える」ことだったのに、利益ばかりを求めて自分に嘘をついている。

いても経ってもいられず、お客さんの波が途切れると、僕は殴り書きした臨時休業の張り紙をドアに貼りつけた。
そして、それから店の奥にある調香部屋にこもった。

夏らしい、爽やかでありながらどこかスモーキーな、嗅いだら星が舞うようなブレンドを作りたい。

僕は何日も店を休んで調香を続け、ちょうど七夕の夜に納得のいく香りが出来た。
「すごい…好みだ」
久しぶりに脳が喜ぶ感覚を覚えて、僕は身震いをした。
細胞の一つ一つが粟立って、歓喜しているのが分かる。
出来立ての香水を持って裏口から店の外に出ると、雲の切れ間から数少ない星が見えた。 僕はそれを見て、初めて自作の香水に日本語の名前をつけることにした。
「七夕」
星空にかけるように空中に振りかけて、思い切り深呼吸をしてみる。
目を閉じると、体の周りを小さな星が瞬く錯覚を覚えた。

もう七夕の夜は短いけれど、今年は短冊を書き直そう。
それは、願いというより自分への決意だ。
「もう二度と自分が心から良いと思うものしか作らない自分であれますように」
願いを叶えるのは、自分の行動の積み重ねでしかない。
短冊が出来たらこの香水をかけて、笹は無いからやはりまた窓辺に吊そう。

僕は久しぶりに晴れやかな気持ちで、鼻歌を歌いながら雲の多い夜空を眺めた。


7.7 七夕
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