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7.4 梨の日

家の鬼門の方角に、梨の木が植えてある。

四月頃であったか、梨の木には白い花弁の可憐な花が咲いていた。
私はその日、その木の下の木陰で、遠く離れた兄に手紙を書いていた。
白い紙の上を、私のたどたどしい万年筆の青紺が這っていく。
何を書いたものかは覚えていない。
兄が家を出てから、もう何度目の手紙であったかも覚えていないほどなのだ。
春風に木の葉と白い花が揺れて、手元の便せんに曖昧な陰を落としていたことばかりが思い出される。

 
もう、季節は夏を迎えようとしている。
兄からの返事はない。
「分かっていたし、それを望んでいたのだ」

私は春と違って湿った土の上に座り、梨の木の肌をゆっくりと撫でた。
「私が恐れからした願掛けが、これほどに効果があるものとは」
私は梨の礫、という言葉にかけて、長いこと梨の木の下で手紙を書いているのだ。
兄から音沙汰が無いのは、兄の愛情が無いからではなく、私がまじないをかけているからなのだと、何度もそう言い聞かせている。

瞼を閉じれば、まだ若い兄が梨の木の下で笑っている様子が思い浮かんだ。
細面の美しい兄に、梨の白く可憐な花が良く似合っている。
私は少しでも兄に近づけるように、梨の木の下で同じようにたたずんでは、喪失の名残にただ黙って胸を苦しめている。

あと二ヶ月もすれば、この木にも甘酸っぱい実が生ることだろう。

白く透明な果実を口にして、起こりくる災いも胸の苦しみも無いことになって、きれいな思い出だけが残ればいい。

私は長い梅雨の曇天の下で、耳も持たぬ梨の木に向かってそう呟いたのだった。


7.4 梨の日
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