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なぜテイヤールは歩き続けるのか〜新国立劇場小劇場『骨と十字架』

ある時、友人と新国立劇場に行き、「新作 脚本:野木萌葱 演出:小川絵梨子」という情報のみが書かれているポスターに気づいた。
お互いが感じる野木脚本の特徴(「情念」とか「濃密な感情のもつれ」とか)と小川演出の特徴(「禁欲」とか「潔癖」とか)を俎上に出し合った結果、「どんなケミストリーが生まれるか楽しみ」という結論に達した。

後日、野木&小川作品のタイトルが『骨と十字架』で、実在の古生物学者の司祭を中心にした信仰と科学のせめぎ合いの話らしい、という情報を得て、膝を打った。
片や渦巻く情念を緻密に書くのが得意な脚本家、片や抑制的な空気で語るのが得意な演出家。二人の得意なカラーを持ち出しあえるうまい題材じゃないか!と感嘆してしまった。

そして2019年7月27日、『骨と十字架』を見てきた。
期待どおり、脚本家と演出家それぞれの強みを活かしあった作品になっていたと感じた。

劇は、イエズス会司祭でありつつ古生物学者であるピエール・テイヤール・ド・シャルダンが、教義と進化論の両立を唱えたかどで、検邪聖省(かつての異端審問所である)から介入を受けそうになる場面から始まる。
信仰を捨てないのであれば科学を、と圧力を受けるテイヤールに対し、同じく司祭でありながら自然科学の学者(生物学と考古学)であるエミール・リサンはヨーロッパから遠く離れれば自由に学問ができると誘う。テイヤールは誘いに乗り、リサンとともに北京に向かうことを決意する。
6年後、テイヤールは未だにキリスト教的進化論の探究をやめていない。リサンと道を分かったテイヤールは北京原人の頭蓋骨を発見するが、それは「神は自らの似姿をつくりアダムと名付けた」という聖書の記述を揺るがすものであり、また、「人類の進化の道筋には必ず神が刻まれている」というテイヤール自身の思想基盤も揺るがす発見であった...。

と、こんな具合に、キリスト教会にとってスキャンダラスなテイヤールの思想と発見に対し、4人の男たち(検邪聖省の役人、イエズス会総長、弟子、リサン)だけでなくテイヤール自身も動揺させられ振り回され揺るがされ変化を迫られ道筋を固めていく様が描かれていく。
20世紀前半のヴァチカンにおいて、進化論とキリスト教の教義を矛盾なく両立させようとするテイヤールの主張が異端扱いされたことは、少しキリスト教を齧った身(中学と高校がミッション・スクールで、学部時代は一応西洋美術史の授業を複数コマ受講していた)でも容易に察せられる。
また、テイヤール自身も自らの発見によって疑念を抱き(ヒトは神の介在なしに進化を遂げる by リサン)、危機に陥る。
しかし、「人間の進化のあゆみの果てには神がおられる。人間は進化の果てに神にたどり着く」という劇の冒頭からの主張をテイヤールは覆すことはない。

『骨と十字架』についての感想を見ていく中で、テイヤールの危機の克服が弱い、テイヤール自身の変節の弧がうまく見えないといった旨をいくつか見かけた。また、会話や関係性の組み合わせが様々で、それぞれにフォーカスのあたるから、テイヤール中心としても少し話がとっちらかっているように見えるという意見も見かけた。これらの指摘には概ね賛成である。
だがわたしは、テイヤールの変容がぼやかされていることが、そして周囲の4人がそれぞれにテイヤールを巡って、あるいはテイヤールを触媒に右往左往していることが、「人間の進化のあゆみの果てには神がいる」というテイヤールの主張の体現とになっていたのではないかと考えている。
(ちなみに、わたしはテイヤールの学説については全く明るくないので、史実のテイヤールに沿っているか外れているかはひとまず置いておいてください)

「神がいる」「神にたどり着く」とは一体どういうことか。
サルからヒトへの進化を考える時に、わたしはついつい身体機能や外観の変容に意識を向いてしまう。そのため、(テイヤール曰く)地平線の果てなき先にいる、たどり着く対象である「神」に向かって歩き続けるヒトの進化を、ついつい身体機能や外観のこととして考えてしまいそうになる。
しかしそうではないのだろう。そういった器としての話ではなく、現状のヒトの知性では捉えきれず、言語を絶する存在様態へと至ると表現した方が近いのだろうと思う。

テイヤールを心配しつつ独善性を発揮するリュバックや、信仰と科学とに引き裂かれた憐れな同士として手元に置こうとしたのに離れられ畏怖と嫉妬に見舞われるリサンや、昼行灯に見えてなんとかカタストロフを避けようとするヴラデイミルや、自らの信仰の確かさでもって強硬に対峙するラグランジュが、各々抱く「テイヤール像」を投げかけても的には当たらず、歩み寄ろうとしても断絶がもたらされる様子が繰り返し描かれることによって、どんどんテイヤールは捉えどころがなくなっていく。4人が右往左往すればするほど、テイヤールに対してアクションをとればとるほど、テイヤールについて語れば語るほど、テイヤールは彼らから距離を取っていく。いわば、言語を絶するような存在へと位置づけられていく。
このように捉えると、『骨と十字架』において、「人間の進化の歩みのはてに神がいる」というテイヤールの学説は、彼の行動や思考の描写を通じて説得的に描き出される類のものではないと言える。むしろ、テイヤールと4人の男たちの関係性を通して彼の主張はパフォーマティブに構築されてしまうものとして描かれていたのではないかと感じた。

テイヤールが自身の学説を主張するためには、ひたすら孤独に歩き続けるしかない。批判やそしり、的外れな理解や羨望、憐れみと祈りと気遣いを集めつつも受け取らず歩き続けるという状態において、「進化の果てに神となる」という主張が行為遂行的に達成されてしまう。(本作の英題が"Keep Walking"なのは、その意味でとても適切だ。)
だからこそ、その主張はどこかに空洞を抱えていて危うく、唱え続けるテイヤールは危機を抜けたはずなのに寄る辺ない。

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