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黒澤映画 銀幕スターの重要性

 黒澤明の映画はなんといっても力強い。

 そんな印象を受けます。
 どちらかというと日本的ではないのかもしれません。溝口健司と黒澤なら海外の人間は溝口に日本らしさを見出すことでしょう。
 そんならしさを抜きにして話すと、黒澤の価値は溝口に勝るものであると思います。洋画や海外の古典文学に大きな影響を受けている黒澤は映画の撮り方、編集の仕方は西洋の監督が作っているといってもおかしくないほどです。
 近代日本はすでに日本人というものが持っていた風土や習わしに無頓着になる方向に向かっていたのだと思いますが、戦後日本はそれを加速させますね。そんな時流と黒澤の映画はとてもマッチしていた、そう思うのです。
 大衆が見たいのは小津や溝口の映画よりも黒澤。当時の日本人の大衆にも求められ、かつ国際的な評価もゆるぎないものと化しました。日本の映画監督といえば黒澤、それが象徴です。

 わたしも黒澤の映画が、日本映画黄金期の作品で最もひきつけられますが、そんな彼の映画に欠かせない俳優、スター。三船敏郎。

彼の存在なくして現在の黒澤はない。三船がいたから黒澤映画は確立した。逆もしかりですが。

 ブレッソンは役者が演技することをとても嫌った監督ですね。ヒッチコックは役者は道具だと言った人ですね。どちらの映画も確かに人間にグーっと入っていく感じではないです。もっと大きな物語、映画という媒体、芸術の力を信じそれを伝えることが重要であるという作り方をしています。似た感じのことで言えば松任谷由美の歌、その歌い方に近いものがあるかもしれません。
 それが悪いということではなく、むしろそれは間違っていないと思えます。
 素晴らしい映画がいつも役者の演技次第で変わるものではないからです。意地悪を言えば役者が自分を出すことは映画全体に悪い影響を及ぼしかねないため、自分を消して演じるべきであるとさえ感じます。

 では黒澤明の映画はどうでしょうか。
 多くの人がそれは黒澤映画には当てはまらないと言うのでしょうか。あの重厚なドラマを作るには三船敏郎の意気揚々とした溌剌さ、志村崇の自然な頼もしいいで立ちなくして成しえない、そう言うのでしょうか。

 三船敏郎はなぜああも人を魅了できるのでしょうか。それは本当に彼の演技がそうさせるのでしょうか。
 ひとつ言いたいのが、彼の演技は実は持って生まれたものであるとしたらどうでしょう。
 三船は演技の勉強はしてこなかった人間です。それは彼が自身が言っています。もともと東宝を受けたのもカメラマンとしてだと。
 しかし、彼はやはり審査員を引き付けた。何をみて彼を評価したのか。

 その存在感、それに尽きるのではないでしょうか。
 様々な要素があります。顔の造形、身長、声。それらが混ざり合いその存在感を放つ。
 それだけとは言いません。しかしそれは人間が感覚的に得る情感と強く結びついている、そう疑いません。
 彼が立っているだけでそこに物語が生まれてくる。そんなこちらに働きかける力それは持って生まれたものである。
 黒澤は三船を能に連れていき勉強させていたという話がありますが、それは三船だからとしかいいようがありません。彼の役者としての可能性はすでに十分にあり、黒澤はその開花の手助けをしたそれが正しいのです。

 昨今の日本映画はつまらないものが多いですが、その原因の一つにまさに銀幕スターと呼ばれていたかのような人間、役者が皆無だということです。
 わたしは演劇が大嫌いなのですが、そんなところで勉強していたから映画でも通用するというのは甚だおかしいことです。映画は舞台ではないのです、四角に映し出された映像、スクリーン上の芸術なのです。
 映画には映画のすること、できることがある。できないことがある。
 映像の中での人間はスクリーンの一部。出しゃばってもいけない、かつ引きすぎてもいけないわけです。映画は監督のものです。すべて監督の頭をすり抜けたものであらねばならない。

 役者ありきではならない。
 しかし、上質なモデル、人間が必要です。映画には。

アート系の作家はいるにしても大したことがなく、映画としての力強さがなく、「映画」をどういうもんだと思っているのか疑問です。それも大きく問題であり課題です。そちらは時間がかかると思います。
 役者の質を向上させる方が先だと思うのは手っ取り早い。というのと、目に見えて変化がわかりやすいからです。脚本も監督の顔もスクリーンには映りません。映るのは役者の顔です。

優れた作家はスターを求めます。

スター、その復興を望みます。


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