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成島柳北『柳橋新誌』に学ぶヲタクライフ

当時は吉原通いが主流で柳橋は新興の歓楽街、そこの案内のようなものを寺門静軒の「江戸繁盛記」の体裁に倣って纏めたのが「柳橋新誌」。

柳橋の案内書でありつつ、客としての振る舞いの巧拙と損得、芸妓の売れる売れないの要因などについても考察しているので、プレアイドルミニコミの走りと言っても良いと私は思う。

成島家は幕府の奥儒者の家柄で、柳北自身も家定と家茂の侍講を務めていた。 血の気の多い人で、後にトンガリ過ぎて蟄居させられたりもするのだけれど、柳橋新誌の初篇は侍講時代に編まれている。 

これは今上天皇の教育掛であった小泉信三が歓楽街の案内書を著したようなもので、時代が違うとは言え、かなりどうかしている。

柳橋新誌はその侍講時代の安政6年から翌万延元年に掛けて編まれた初篇、幕府が倒壊して隠居したのち明治4年頃編まれた二篇に分かれる。

(三篇は出来上がったものの発禁。草稿は散逸して序文のみが遺されている。)

文学的価値は文章が練れていて社会風刺も鋭いニ篇の方が高いとされているが、これは遊びを知らぬ堅物学者の言。 歓楽街案内に仮託して社会風刺に比重を置いた二篇より、若書きでも洒脱で気楽に読める初篇の方を私は採る。

この項では初篇の中から、現代のアイドルヲタライフに応用できそうなところを二つ抜き出してみる。


"金" "貌" "才"

柳北先生は、楽しく遊ぶ為に必要なものを三つ挙げる。 曰く"金" "貌" "才"

金と才と有る者は、貌無しと雖も亦以て一大快遊を爲すに足れり焉。 金と貌と有る者は、才無しと雖も亦以て彼が愛を得て貴客爲るべし焉。 金と才無くして貌有る者、金と貌無くして才有る者、並びに是れ下等爲す可からざる者也。 試みに二者を錘せん。

金と才があれば、顔が不味くとも楽しく遊べる。 金と貌があれば、才が無くとも愛され、上客として遇される。
では金と才の無い美男と、頭は切れるが金の無い醜男、どちらがマシかと言うのを柳北先生は考える。

才は猶爲す可き也、貌は爲す可からざる也、何ぞや。 曰く、貌は死物也、才は活物也。 死物は變ずる能はずして、活物は能く變ず焉。

(中略)

若し能く變に應じ時を觀て其の功を謀らば、則ち焉ぞ些々の片金といへども能く彼の妓をして敢て虚誕八百話を説かずして誠意奉承せしめ、一時に轉じ來り深草少將の九十九夜往いて而して之を挑むが如きを待たざるを知らん也哉。

結論としては"才"。 顔は変えられないが、頭は使えば使っただけ時に応じた対応が出来る。

柳北先生も「乗った人より馬は丸顔」と福地桜痴に揶揄される(見栄っ張りで薩長に媚びる変節漢の福地が花街でもてなかった故のやっかみだったのではないかと、私は想像している)くらいの恐ろしく長大な顔。 造作そのものは悪くないが兎に角長い。 人間は柔らかいが職務については厳しく、賄を取って暮らすタチでは無いからそんなに金もない。

矢張り楽しく遊ぶ為の切り札は自らの"才"だったのだと思う。

こうした戯れ文をものするのも、頭を使って楽しむ遣り方の一つであったのではないかと私は考える。

嗚呼客の妓を招く者太だ多し矣。 技を聽く者有り、豪を耀かす者有り、酒を勸むるが爲にする者有り、人を饗するが爲にする者有り、。 何ぞ必ずしも人々其の轉を樂む者已ならん哉。

"金" "貌" "才"は花街の遊びの接客に係る部分(柳北先生の言う「轉バス」)に限った話であって、それ以外の目的で来る客が居る事も踏まえた上での話。

接触派だけでなく、楽曲派、豪遊派、飲酒派、饗応派。 客の数だけ楽しみ方も夫々。


繁華都内遊客幾許ぞ、而して人心各異なり

芸者は、一人前の「芸者」と見習いの「お酌(半玉)」に分れていて、其れを柳北先生は大妓・小妓と書いている。

蓋し酒席上大妓彈じて小妓舞う、以て觀を備ふ可き也。 而して小妓の舞大妓の彈、巧有り拙有り、一同視すべからず。 蓋し十個中巧なる者三ツ、拙なる者七ツ、美なる者に拙なる多く醜なる者に巧なる者多し。 醜なる者は手を以て沽るることを謀る、故に専ら之を攻む。 美なる者は面を以て沽ることを謀る、故に手に疎なり。 客も亦面を取る者七にして手を取る者三ツ、故に拙き者は利多く巧なる者は利少し。

当世のアイドルと同じく、可愛い娘も居ればそれほどでもないのも居る。 それほどでもない方は歌や踊りに身を入れるけれど、可愛いほうはその可愛さを売りにするので身を入れない。

可愛いのが三に対してそうでもないのが七、しかし客の嗜好は可愛いのを好むのが七で、歌や踊りを好むのが三。 だから下手糞な娘は実入りが多くて、上手い娘は少ない。

而して技色共に下にして亦能く沽れる者有り。 奇なりと謂ふべし矣。

ところが容姿も伎倆も冴え無いのに人気の有るのが居る、こりゃどういう事だ、家で女中からかってた方が安上がりなんじゃないかと柳北先生、遊び仲間に疑問をぶつける。

するとその友人、笑って答へて曰く。

吾子は其の一を知つて未だ其のニを知らざる者なり。 繁華都内遊客幾許ぞ、而して人心各異なり。 其の色を悦ぶ有り、其の技を賞する有り、其の氣を愛する有り、其の風を好む有り。 色と技とは因より重んずる所也。 而して妓の任侠を喜んで其の財を吝まず、然諾を重んじて其の人を辱めざる者は、蓋し室婦閨女の夢視せざる所也。

キミは判っとらん、首都圏アイドルファン300人、趣味嗜好は夫々。 可愛かったり歌や踊りが上手いってのも重要だけれど、握手会対応に重きを置くのもいる。 

姿容潔にして粧飾淡、進退動止其の地を失はず、言辭應對其の時を曠しふせざるは則ち亦妾婢の企て及ぶ所の者に非ず。 是れ妓の獨り有する所にして他人の得て能くする無き者也。 容技両ながら空しき者の沽れる、此れを以てに非ず耶と。

垢抜けた容姿にさらりと着飾り、立ち居振る舞いが美しく、打てば響く受け答え。

これはアイドルならではの特質で、素人じゃこうは行かない。

容姿も伎倆も冴え無いのに人気の有るのが居るってのは、そう言うことなのではないか。

斯く言う私も「奇貨、居ク可シ」の徒であり、可愛いとか歌や踊りが上手いとかだけではない"どうかしている何か或るもの"が無いと喰い足りない。

江戸の昔からアイドルファンと言うものは一筋縄では行かぬ厄介なものなのであった。

【参考文献】

成島柳北 著、塩田良平 校訂、『柳橋新誌』、(岩波書店、1987年)、22-27頁。



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