ササガワヨウイチ写真展 「 世情 」

間に合いそうだったので、出先から四ツ谷四丁目のギャラリー ニエプスへ。

この写真展は二つの題材から成る。
一つは「我が国及び国際社会の平和及び安全の確保に資するための自衛隊法等の一部を改正する法律(平成27年9月30日法律第76号)」と「国際平和共同対処事態に際して我が国が実施する諸外国の軍隊等に対する協力支援活動等に関する法律(平成27年9月30日法律第77号)」が審議されていた2015年8月30日の国会前の集会。

もう一つは豊洲の新市場への移転を目前にした2018年9月30日の築地市場。

写真展の案内にはこう有る。

時の流れの中で、大切なものが失われていくと感じた。戦争をしない国も、文化に彩られた人情味のある町も・・・

国会前の集会に関しては、ササガワヨウイチとは見解を異にするので、情緒的な視点で撮られた写真の高めの温度に居心地の悪さを先ず感じた。

為政者をファシストに擬えて罵倒する人々が、一つの旗の下に揃いのプラカードを掲げて気勢を上げ、示威を示す。 ファシストのやり方に倣ってファシストを罵倒する滑稽さに、当事者だけが気付いていない気味の悪さ。
ササガワは個人の自由意志で集まった組織化されていない人々の熱気を感じて足を運び、シャッターを切ったようだが、私は揃いのプラカードや掲げられた旗に党派性を見てしまうし、フォークゲリラ的な情宣には前時代性を感じてしまう。

ササガワが感じてカメラを向け、シャッターを切った構図の中に、ササガワが切り取ろうとした以外の様々なものが写っており、撮ったときには撮影者の目に写らなかったものが、プリントすることに依って可視化されている。

鹿ケ谷の陰謀の頃から相も変わらず、為政者への悪罵で溜飲を下げることで終わってしまって、思い通りにならぬ世の中を変えようとすべく具体性と有効性のある行動には出ない。
議会制民主主義に基づく国権の最高機関に押し寄せてオダを上げたところで、自分たちの代表を多く送り込めていない者は無力である。
議会制民主主義を是認しているから国会前に集まるのだと思うが、その議会制民主主義に於いて多数派になろうとする工夫も努力もなく、恨み言を言うだけの人間に何ができようか。

そんな中で共感できたのは公権力で集まった人々を圧伏せしめようする警備担当者や公安の物々しさと現場の息苦しさ、そして明らかに自分の意志で足を運んだと思われる手作りの牧歌的なプラカードを掲げる「目を三角にしていない人々」を撮ったもの。
絶望と希望の対比。

ササガワの心情は集まった人々寄りであったと思うが、撮られた写真は思想信条から離れた客観性を持っていて、だからこそ見るに堪えるものにはなっていた。
逆に、思想信条に絡め取られた人から見ると物足りなかったかもしれない。

後半は移転の迫った築地市場。
こちらも写真というものの残酷さ、現実の冷徹さと、撮影者の情緒が綯い交ぜになっており、滅びゆくものの美しさが切り取られていた。

食の安全と安心を担保できない豊洲新市場に反対する標語が大書され、既に色褪せつつ有る看板が、古く汚く清潔感の欠片もない前時代的な魚市場に掲げられている。
「ごみすて禁止」「市場は指定場所以外禁煙です」の看板も、破る人がいればこそ存在する。

開放的な設備であったからこそ、場内場外取り混ぜて水産にまつわる種々の業種が集まって現在の築地の賑わいが成立しているのだけれど、その開放的な魚市場と言うものが時代に合わなくなってしまったし、舗装はひび割れ、窪みには水が溜まり、鉄骨は錆び、屋根には穴も開いてしまって、建物としての寿命も尽きようとしている。
移転に反対する向きが目を向けず、ともすれば隠蔽するような物にも、カメラは向けられている。

この魚市場と、それを取り巻く環境へ寄り添う心情で撮られた写真でありつつ、感傷に引きずられすぎていない。 
意図したものなのかそうでないのかは分からないが「廃墟としての建築」の美しさが、例えば穴の空いた天井から漏れた光がぬかるんだ通路に描く水玉模様として切り取られたり。

廃墟になりかかっている場内は薄暗く、海外からの観光客で賑わう場外は明るく。
意識と無意識、理性と感情、この二つのバランスが必ずしも良くないところが、ササガワヨウイチの写真の面白さであり、心に引っ掛かる何かの正体なのではないか、そんな事を考えた。


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