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The 10th Gelatin Silver Session ー100年後に残したい写真

六本木交差点から東へ、飯倉片町の交差点手前のビルの4階にあるアクシスギャラリーへ。

「100年後に残したい写真」と言う兼題で、50人の写真家が撮った未発表作品で構成。
銀塩写真の美しさ・楽しさを広く知って貰おうと言う趣旨なので、見る者の心にさざ波を立てる類の写真も、プリントとしては美しく。
嫌いな写真家の作品も有ったが、質として粗悪なものは無かった。

デジタルプリントも進歩しており、銀塩に迫る・超えるような作品を目にすることも増えたが、腕のある人の渾身のプリントはやはり違う。
焼き込みや覆い焼き、集散光式か散光式か、現像液の種類や濃度、温度管理etc...様々な要素の数万通り(もしくはそれ以上)の組み合わせの中から正解に近い幾つかを選び出す。
錬金術と言うか呪術と言うか、情念のようなものがプリントにも宿り、湿り気を帯びて固定される。
そして込められた「何か」が、見る者の発する熱で滲み出て、漂う・・・ような気がする。

来場者の作品への食い入り方が、滞廊時間にも現れており、一枚の写真の前に佇む時間が長い。
そしてそれは人により不規則的であり、通り過ぎてしまう写真も有れば、立ち去りがたい写真もある。

カラーでは瀧本幹也、中道 淳、山内 悠、広川智基。
モノクロームでは菅原一剛、瀬尾浩司、小瀧達郎、井津建郎、広川泰士、百々俊二、宮原夢画、中藤毅彦。

私が引き込まれたのは、

広川泰士の撮る富士山は雲や靄まで含めて、整えずに撮られ、プリントされている。 雑味まで残した風景の妙。

小瀧達郎の、水面に映る木立と、重苦しい冬の空。
黒と灰色の間のこってりした色乗り。

山内 悠の、夢のような景色の中で、中央に佇む夫婦のみ「現実」として立ち現れるモンゴル。

余白まで含めて作品になっている、瀧本幹也の白鳥。

こってりした温黒のプリントが多い中、純黒ですっきり仕上げた中藤毅彦の作品が異彩を放っていた。
渋谷の街の変わりゆく様を建物中心に二眼レフで切り取っているのだけれど、文字情報であったり、物の形であったり、私が街で写真を撮る時にたじろいでしまう物、立ち止まって考えてしまい結局撮らない物が、ごく自然に切り取られている。
初期衝動に素直と言うか、撮るべきものを感じた時に構図を切り、シャッターを押せている。
このあたりがストリートスナップの間合いなのであろう。(2019.04.30)

再訪

今日も六本木へ。
ミッドタウンの関連展示の方だけ見ようと思っていたのだけれど、寝ぼけて麻布十番で降りてしまったので、永坂から飯倉片町。 アクシスギャラリーを再訪。

人の動きが順路を辿らない、辿らなくても良いように動線にゆとりが持たれている。
十分に広く、流れを阻害するものが無い。

高い天井、薄暗い室内、暖かく柔らかな照明。
小声で語り合う人々。
唯一思考を妨げられたのは祝花の放つ、強い香り。

あれこれ見て回って、気になった写真の前に佇む。

広川泰士の富士に見入る。
靄や雲まで含めた、すっきりしない風景。
アマチュアの人は特に、風呂屋の壁絵のようなすっきりした富士を撮りたがるが、私はこうした風邪をひいた時に見る夢のような、曖昧で煮え切らない景色を好む。

見応えの有る、良い写真展なのだけれど、なにかしっくり来ないところがあり、見ながら考えていたら答えらしきものが見つかった。

・写真が饒舌に過ぎて、銀塩の素晴らしさを強弁
・写真そのものより、技法としての凄さが出てしまっているものがある

メッセージは間接的な方が伝わるのではないだろうか。
強過ぎると理解は出来ても共感出来ない。
生で突き付けられると、一旦拒絶してしまいたくなる感情が生まれる。

美術より工芸に寄り過ぎたと言うか、プリントとしては美しいが、写っているものには必然性が薄いようなものも有った。

しかし、「そうではない写真」も併存することで、同調圧力の息苦しさのようなものは薄らいでおり、そこには救いが有った。
何だか良く分からない作品も有るし、それを無理に「分かろう」とする必要も無いのだと思う。
(2019.05.02)


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