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女子カメ展 2

午後からギャラリー・ルデコへ。

入り口で記帳を求められる。
記帳と言う物は、見た写真が気に入ったり、感ずるところが有れば帰りに書き残す、そうでなければ書かずに帰る。 そう言うものだと思っていた。
見に来た人は肯定的であるべき、自分たちの写真が認められて然るべきだと言う、無自覚且つ根拠のない自信のようなものにまず当てられる。

写真を見てもらう欲求より、写真を口実に仲間を増やそう、人と繋がろうとする、熱気と圧がより大きく、場を支配していた。
来場者の動線の確保より、出展者のたまり場としてのテーブルの設置を優先。
来場者も、写真そのものより撮った人・撮られた人に用がある人の方が多く、その点では合目的的ではあった。

たまり場テーブルの後ろの柱。 賞賛コメントが虫ピンで貼られている。 当然の事ながら賞賛コメントしかない。
賞賛される前提の、賞賛される為の写真展。

それぞれの出展者のスペースは、それぞれのセンスで飾られているが、麻紐、木の洗濯ばさみ、ドライフラワー、ハレパネ、etc...、小物が被ってしまい、個性を出そうとした結果没個性に堕して行く様は滑稽ですらあった。
自分らしさを目指した末の、結果としての横並び。

被写体の「見せたい自分」を汲み取った写真が多い。 綺麗だが空疎。
私にとっては退屈極まりないものでも、写真としては破綻なく成立しており、特に瑕疵はない。
かつて、高野寛は言った「甘いだけのラブソングがあったっていいじゃないか」。
当たり障りのない綺麗さを撮影者と被写体が共有することに幸せが生まれるなら、それはそれで良いのかも知れない。

記念に写真を撮りたくなる場所であったり、そうでなかったり。
記念に写し取られる人が構図の中に居るカットと居ないカットで上下二段になっている、てらにしあき の2コマ漫画的な作品群。 これは例外的に面白かった。 嚢中の錐。
(2019.6.16 記)

写真展には、特にグループ展には懇親会的要素が付きものであるが、匙加減が難しい。
レセプションのある日を作ってそこに集中させる手もあるが、そうも行かない。
小規模な懇親会、撮影会が其処此処で同時多発的に起きていたが、誰も場を制御しようとはしていない。

割り当てられた場所に依っては(袋小路など)立ち止まって見る事が難しい場所がそもそもあり、動線は考えられていなかった。 考えていたのかも知れないが、機能していない。
仮に巡回して見るスペース、動線を確保しておいたとしても、どうしても滞留する人が出てくる。

また、写真の傾向によって人気不人気はあり、出展者が在廊しているかいないかによっても来場者の寄り付き方は異なる。
それを見越した配置、滞留を解消する目配り手配りをした上で、出展者として懇親の輪に身を置きつつ、統制する者としてのアンテナも立てておき、場をコントロールしなければならないのだけれど、全体を俯瞰している者は見当たらなかった。
損な役回りではあるのだけれど、誰かがやらねばならない。

写真そのものより、見せ方での差別化を図る出展者が多く見られた。
自分に与えられたスペースを飾り付けて自分の空間として演出しようとしてはいるのだけれど、使っている小物が似通っているので、差別化を図ろうとすればするほど陳腐化して行く。
ハレパネでも額装でも直貼りでも、その写真を見せるためにふさわしいやり方であれば、どんな方法でも良いと私は思うのだけれど、出展者の多くがハレパネ。
考えた末に辿り着いたやり方のようには見えなかった。

自分だけの、自分ならではの写真と言うところまで突き詰められたものは少なく、並び大名と言うか、枯れ木も山の賑わいと言うか、群衆の中の個として埋没してしまい、印象に残らない。
印象に残りにくいのは、写真として見るに堪えない粗悪なものが無かったからでもあり、人に見せる最低限のレベル以下の出品作は見当たらなかった。
もっと、自分の写真の持つ力を信じても良いのではなかろうか。 下駄を履かせなくても、伝わるものは伝わる。

感想が書かれた付箋を柱に貼り出していたが、アンケートが私的なものであるのに対し、貼り出される前提の付箋は公的なものとなり、否定的な意見は書きにくい。
肯定的な意見が多く掲出されれば、その傾向はより強まる。
来場者全員にアンケートを書いてもらうのも結構な手間になり、アンケート用紙、ボード、筆記具、揃えなければならないものも多く、お金も掛かる。
アンケートの設問次第でも変わってくるのだけれど、参考になる意見ばかりでもなく、費用対効果としてはよろしく無い。
それでも、来場者の反応を知りたかったのであれば、一番確実なのはアンケートであると思う。

写真を見てもらう事より、写真を取っ掛かりにして人との繋がりを求める催しのように私には見えたし、自分の写真がどう受け止められるかより、自分の写真を褒め称え、肯定してくれる言葉を欲しているように感じられたのだけれど、私が書いたものへの反応を見るに、そうでも無かったようだ。

・・・と言うことは、自分たちが見て欲しかった写真展としての在り方と乖離していたということでもある。
試みとしては悪くないと思うので、より目的に適った遣り方を模索して欲しい。
(2019.6.15 追記)

大人の文化祭と言うか、祝祭空間を演出する意図はあったのだと思うが、それが
「上手く行き過ぎた」
ことで、収集がつかなくなる。

それぞれの出展者の展示スペースの前でミニ懇親会、更には撮影会みたいなものが始まってしまう。
それが目的の来場者も多く、制動を掛ける者が居なければ、来場者の振る舞いも次第に臆面のないものになって行く。
それを「止めない」ことで、女子という枠で括って写真展やりたがる人に共通する「賞賛されたい欲」「肯定されたい欲」みたいなどす黒いものが、きらびやかに飾られた会場から透けて見えてしまうように、私には感じられた。

グループ展の懇親会的な部分を否定はしないけれど、懇親会のための懇親会に、来場者(男)がしてしまっていて、それに無頓着あるいは意図して放置する。
来場者は有難い存在ではあるのだけれど、それぞれに「自分の都合」を抱えており、時としてそれは暴走する。

撮った人と写っている人にのみ来場者の意識が向かい、其処に在る写真は閑却されてしまう。
本来、人と人とを繋ぐ筈の写真が横に追いやられ、写真を抜きにして懇親会のための懇親会が始まってしまう。
それに無頓着であった主催者の無為無策が、私が感じた漠然とした不愉快の正体であった。

盛況であることと、展示した写真が適切に見られているかどうかは、必ずしもイコールで繋がってくれない。
そして、主催者の立ち位置が完全に「楽しむ側」に回ってしまうと、来場者・出展者を楽しませることは出来ない。
楽しませることを楽しむ意識が持てれば、その場での振る舞いも変わってくると思う。

否定的見解に終始してしまったが、写真展「TOKYO MODELS vol.1」でも感じた、「盛況であることに固執して来場者が写真と向き合う環境を整えない愚かしさ」について、突き詰めて考える切っ掛けを呉れたことには感謝したい。
(2019.06.18 更に追記)

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