桑島智輝写真展「再旅行」

恵比寿のライブハウス、リキッドルームの二階にあるギャラリー。
防音がしっかりしており、割りと静か。 重低音は流石に響いてくるが、会場BGMが流れていれば、然程気にならない。
天井が高く、照明の位置も考えられているので、眩しさを感じることもなく、写真を見ることに集中できる。

出入り口以外の壁三方にキャビネくらいのモノクロプリントが目の高さくらいに横一列。
大きく伸ばされた写真は、額装されて壁に掛けられたり、立て掛けられたり。

「僕にとって、写真は生涯であり、その中でも妻を写すことは一番の幸福なのである。」
(フライヤーより)

2015年7月、新婚の二人がドイツからポーランドを巡った旅の記録。
日付が入っているという事はコンパクトカメラなのか、構図もピントも露出もザックリと。
反面、プリントは白が飛びすぎず黒が潰れない頃合いにみっちりと。
二号半で焼いて貰ったが、黒が締まらなかったので三号で焼き直したとのこと。
三号でこの色を出すとなると、焼く方も大変だったと思う。
それが可能なのが「プロラボ」なのであるが、良いプリントだった。

旅の目的は「ベルリンの世界一(と桑島の考える)クラブ」「ビャウォヴィエジャの森」「アウシュビッツ」。
旅がアウシュビッツに入ると写真が重くなる。 写真美術館で丁度始まったマイケル・ケンナ展でも、同じ場所で撮られた写真が出品されていたが、当然のことながら切り取り方は異なる。
同じツィクロンBの空き缶を同じように撮った写真でも、精緻に記録しようとするケンナと、目にした際の感情まで切り取ったような桑島。
撮る人に依って写真も変わる、だから撮る意味がある。

旅の記録には妻であるところの安達祐実が写るのであるが、撮られるがままに切り取らせている。
役ではない自分で撮られるのを厭がる役者も多いが、安達祐実は寧ろ進んで撮らせている。
無論、撮らせる相手は選びに選んだのだと思うが、眠っていたりする無意識下にある自分まで撮ることを、更にはそれを公にするのを許容しているのは、信頼以上の何かがあるのだろう。
無意識下の自分を撮られるのは、服を着ている着ていない以上の抵抗がありそうに私は思うのだけれど、どう言った心の働きからそれを許容するどころか進んでさらけ出せるのだろうか。
肚が太いと言うか、底が知れない。
そうした撮っても撮っても、汲めども尽きぬ被写体を伴侶に得たことは、天国なのか甘美な無間地獄なのか。
いずれにしても、幸せなことに変わりはない。

相手にだけそれを強いるのではなく、桑島自身も反射物に写り込み、セルフヌードも一枚。
無意識下の自分については、写真を撮る際に必然的に出てしまっている。

八百比丘尼的な不老不死感を喧伝されることが多い安達祐実も、桑島の撮る写真の中では確実に齢を重ねている。
暴き立てる訳ではなく、淡々と、飽くまで淡々とその事実が切り取られ、提示される。

隣に座る桑島の大腿部にそっと手を置くカットが旅の始めと終わりに一枚ずつ。
言葉にしないことで伝わる気持ちや思いが写っていた。


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