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子どものきょういく、おとなの生きかた~応用行動分析学を越えて~


「子どもに、言うことを聞いてもらうための、科学的な手法がある」

 と聞いたら、どう思いますか?

 教員をしており、二女の子育て真っ最中だった3年前のわたしは、両方の場面で「子どもとのかかわり方」に心から戸惑っていました。だから、それらの悩みに一つの解を示してくれるであろう「応用行動分析学」に出会ったとき、藁にもすがるような思いで、それを学び始めました。

 2年半ほど前、大学に科目等履修生としてパートタイムで在籍し始めたときのわたしは、繰り返すようですが、高校で非常勤講師として教壇に立つことを主な生業としながら、ワーキングマザーとして「子育て」にかかわる家事に奮闘していました。

 前者はいわゆる9時5時、後者は職場を退勤して、保育所と児童館へ二人の娘を迎えに行ってからの18時~22時の「お仕事」でしたから、一日あたり[8+4=12時間]、何か外からの求めに応じて、時間を使っていました。8時間睡眠とすると、起床している時間は16時間で、そのうち実に4分の3を、他者の求めに応じて、割いていた。それは自主的というよりも、何か追い立てられるような気持ちのするもので、何か歯車にでも巻き込まれるような(一定の回転に合わせていないと、そこからこぼれ落ちてしまうことを危惧しているから)のっぴきならない心持ちと姿勢で、時間を注いでいたような気がします。

 「子どもに、言うことを聞いてもらいたい」

 という切実な願いは、そんな歯車の毎日だったからこそ抱いていたものだったのだろうと、今そこから距離を置ける状況になって、振り返ることができます。

 応用行動分析学について、かいつまんでお話ししましょう。

 応用行動分析学は、特に支援を必要とする対象者に対して、その人にとって望ましいと思われる行動を増やし、逆に望ましくないと思われる行動を減らすために確立された学問です。その意図を実現するために、他者による介入も含めて、環境を調整する、その調整手法の背景にある理論自体を、臨床的な知見を集積し、探求し、それを支援者や被支援者に逐次還元してゆく、そんな学問のようでした。

 さて、それを二年間、半年前まで学んでいたのですが、ここ3カ月、現代の日本社会で一般的に「子育て」や「教育」で望ましいとされている考え方や方法(そんなものが実際にあればの話ですが――)を、良い意味で少し「距離を置いて、遠くから」俯瞰するような経験を、しています。その立ち位置に、これも一般的に知られている名前を敢えて付けたとしたら、オルタナティブな暮らし方・パーマカルチャー・自然回帰的な人の在り方、というような称し方をしても、いいのかもしれませんが、どれもしっくり来ないのが、実情です。たぶん、ここ数百年の人類が経験していない世界を、コロナパンデミックが席巻する世にあって、わたしたち人間は創造してゆく、その分結点を、生きている。そんな、感覚がしています。

 そのような中で、子どもをみていると、思うのです。


 「大人の期待を、子どもに曲芸させては、いけない」


 子どもは親のことを、親が子どもにそうする以上に、本質的に愛して、その手元に来てくれているのだな、と、思う瞬間が、あります。だから、親が喜ぶことが、したいのだなと。

 だから、親が自分に、何かを期待していて、それを満たすことで喜ぶのなら、子どもは喜びのうちにその期待に沿う行動をするでしょう。だけれど、それで、良いのでしょうか?


 「わたしたちの子どもたちは、はたして親やその上の世代がはかり知る範囲で生きるために、この世にやってきたのだろうか?」

 そう、前述したような令和黎明の世を生きていて、深く疑問に思うのです。

 そして、こたえは、明らかではないでしょうか?

 この肉体という意味では、われわれ人間の経験は年功序列、歳を取っていればいるほど、経験した時間の長さだけでなく、経験の量も、それに付随して大きくなるでしょう。しかしながら、それはあくまで今生の肉体について言えば、のことで、この物質の中に吹き込まれている「たましい」のようなものの年齢を、肉体に比例すると考えるのは、あまりに心に照らした理に叶わなくは、ないでしょうか。万物を己の目でつぶさに観察する、その時間と心の余裕があれば、いかなる科学を目の前にしても、この「魂の年齢は肉体のそれに比例しない」という仮説を、敢えて反証しようという気は、起きないのではないかと、思います。


 「わたしたちの子どもたちは、はたして親やその上の世代がはかり知る範囲で生きるために、この世にやってきたのだろうか?」


 さらに、この問いを吟味してゆくとき、「わたしたち人間一人ひとりが神性をもった存在である」はずだ、というもう一つの考え方を考慮に入れると、どうなるでしょうか――?

 人間は、本能的に命をつなぐほかに、自我のはたらきによる理性をもってして、|思った世界を創造する《・・・・・・・・・・》ことができます。これは、ほかの動物にはない、人間という生命の入れ物にだけ、授けられた機能です。その入れ物を動かしている動力のようなものを「たましい」と呼ぶのだとしたら、そのたましいには、それぞれの肉体を纏っているうちに果たす「目的」があるのではないか、と考えることはできないでしょうか?

 ――だって、わたしたちには「思った世界を創造する」能力が、授けられているのです。どんな世界を「思い」「理想として描く」か、と言ったときに、自我が満足する世界、という直近の、しかし近視眼的なものを「目的」とするのは、何だか子どもじみているとは、思いませんか?そこを抜けて、幸せを、自分という個体とその時間軸・空間軸から離れて俯瞰した視点でとらえるとき、万物と調和のとれた世界をこの物質界に具現化することを、望まずにいられるでしょうか?

 ――いいえ、いられないはずです。だって、自分の子どもも、他人の子どもも、あらゆる生命が、何ごとにも脅かされることなく幸せにいのちをつなぐ毎日の営みの中に暮らせる、そんな現実や未来を思い描いたとき、あなたの中の悩みや過去への悔い、劣等感や不安さえも、消えてしまうような気が、しませんか?――わたしには、します。


 「わたしたちの子どもたちは、はたして親やその上の世代がはかり知る範囲で生きるために、この世にやってきたのだろうか?」


 こたえは、そうじゃない、と、わたしは断言したい。

 ハリル・ジブラーンの詩を読んだことのある方は、彼の詩の中の「子どもたちは明日の家に住んでいる」というような描写に触れたことがあるかと思いますが、きっと、まさに、そうなのです。「おとな」が成長し現代社会の中で経済活動に組み込まれて働く過程で忘れてしまった「たましいの目的」を、子どもたちは、ずっと鮮明に、覚えていることでしょう。それに、自分というおとなよりも新しい世代を選んで生まれてきているこのたましいの宿り木たちが、次なる時代の流れに与するために担っている目的というのは、また自分たちの世代とは異なるであろうことも、先述したような心に照らした理性で考えれば、明鏡に映す目の前の顔が自分のものであるがごとく、明快なことではないでしょうか。


 これらのことを真剣に心に抱くとき、応用行動分析学の、こちらの、大人の意図するものごとで、被支援者としての子どもにこちらが期待することをさせる、という方法は、根本的に本質的ではないとは、思わないでしょうか?子どもが、大好きな身近な大人に、褒められたい、注意を向けてもらいたい、ということを、言葉を選ばずに言えば、悪用しているとは、言えないか。それがたとえ、善意の意図によるものだったのだとしても……!

 子どもに唯一、親や、身近な大人として「期待する」ことができるとしたら、


「あなたのたましいが悦ぶことを見つけ、それに没頭し、それを他者と分かち合って、その輪のなかで、幸せに生きてほしい」


 ――これだけなのではないか、と、最近とみに、思っています。

 このことを、メッセージとして送り続けることで、子どもは安心のもとに、自分が創造された形の求むるところをその御手でこの世に実現し、そのためにこそ御足を地に着けて、歩いていくことがきる


 わたしたち現代の大人は、応用分析学を越えて、子どもに接する局面に来ており、そのために、他ならぬ自分という肉体を通して生きたかった「いのちの目的」を思い出し、それを行為としてこの世に顕してゆくことが、必要なのではないか。――そう、強く、感じています。


*** 


 二年前、令和元年年の瀬に、それを助けてくれる英書に出会い、一年半前からそれを英訳し、出版するというしごとを授かり、進めています。

 日本語版のタイトルは、

 『いのちのじかんのまもりびと』

 に、決めました。


 どうか、いのちの目的が果たされ、万物と調和のとれたなかで個が皆で幸せになってゆく世界が、この世に具現化されますように。

 そんな、祈りを込めて翻訳しています。

 どうぞ、尊き万物、尊きあなたからも、お力添えくださいますよう…!



小畑知未
令和3年10月21日 朝 佐土原の友人宅にて 記す.

令和4年3月3日 出版まであと132日 .


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 § 12月、クラウドファンディングページ公開に向けて、準備しています。


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 § 友人宅で少しずつ、読みながら、インスピレーションを頂いています。


投げ銭は、翻訳の糧になります。