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【子育てを楽しくするエッセンス】親になる大人みんなが、親にならない人もいっしょに楽しく子育てする社会へ♪

こんにちは。茨城県つくば市で、兼業で二人の子育てをして10年になるすかーれっとです。この記事では、【子育てが楽しい社会】ってどんな社会なのか、そんな社会を構成する一人ひとりの考え方に焦点を当てながら、そのエッセンスをまとめてみます。読むと、老若男女問わず、楽しく子育てしたくなります(笑)よろしければどうぞ、お付き合いください。

「子育て」って聞いて、あなたはどんなイメージやことばを思いうかべますか?

「しんどい」?それとも「楽しい?」

・・・子育ての担い手、と言ったらどうでしょうか。

「母親の仕事」?あるいは「夫婦で協業するもの」?敷衍して「社会で育てるもの」?

・・・子育ては日々の生活において、あなたからどれぐらい距離があるでしょうか。

「限られた人の担う聖職」?もしくは「日常」?

(自分が血を分けた子であるか、血縁以外の子であるかは問わず、という条件で、考えてみるのがいいんじゃないかと思っています。)

・・・子育てのパートナーシップにおける働きに注目すると、どうですか。

「かすがい」…?はたまた「カップルだけの時は円満だったのに子どもが産まれたら二人を分断する材料」…?

最後のを見たとき、あなたの心はどう反応するでしょうか。

「イタいところ突かれた…そこ、夫婦関係における滞りのツボやねん。まじ押すと痛いわ~!!」という方、私も良く分かります(笑)

核家族化社会の子育てが直面している課題

(経験上、本当に)苦笑いしちゃうので、「(笑)」と書きましたが、これは笑ってはいられない、人類史上でたぶん一番核家族が一般的になった現代を生きる、私たち人間みんなで直面している課題、と言えるのではないでしょうか。

ジェンダー役割という、無意識の価値観にどう向き合うか、が問われている

多くの場合、それは男女カップルで、男女それぞれが、それぞれのジェンダーに対して抱いている家事役割と現状の労働形態がミスマッチをおこして、そのぎしぎししたところを多くの場合女性が引き受けていて、結果としてその状態に対する理解の違いから、子育てを含む家事をめぐって男女関係がギスギスする。

つまり、言い換えると、「男も女も家庭の外で働きなさい、男女総活躍社会だ」という建前と、「家事育児は女性の仕事」という価値観が、矛盾をおこしている。え?そんな価値観、とうに俺・私は乗り越えているさっ!という一見爽やかで先進的な顕在意識とは裏腹に、思いもよらぬところで無意識の固定観念を、私たちは、それも無意識に、受け継いでいるものです。

差別は誰の中にでもある、を前提とする

差別の意識は(被差別を含めて)誰の中にもあり、その事実に謙虚に気づき、受け入れ、それをこんどは意識的に克服していくことでしか、差別は解消されない。――というのは、学部で専攻していた教育社会学の、私にとってのいちばん大きな学びでした。(教育はつまるところ、このために機能してこそだと思っています。まぢ受験とかじゃなく!)

子育てを楽しくするエッセンス

さて、今朝noteを開けたらぱっと目に飛び込んできた、「子どもと~をしてきたかの軌跡が子育てを楽しくする」というkaoriさんの記事がとても素敵で、この記事のインスピレーションになりました。(下記リンク)

エッセンスが発揮される「余裕」という味付けが、社会全体にあるのがいい。

個人端末やそれによってアクセスできる各メディアなどなど、同じ空間にいる人が、別々のものを見ていることが、簡単にできる世の中になっています。それには良い方向にはたらく面もあれば、望ましくない方向にはたらく面もある、というのは、皆さん感じられていることだと思います。

そんな今だから、紹介している記事でkaoriさんが書かれているように、子どもと同じものを見つめる、というシンプルなことが、意識してやらないと実際に難しくなっている。

そして、そのシンプルなことを可能にするのは、子どもと関わる大人の余裕だな、というのを、この10年で二人の娘を育ててきて、強く感じるのです。

大人の方が、毎日の生活を回すのに精いっぱいで、時短・時短・効率化でぱっつんぱっつんにいろいろ切り詰めているとき、本気で「子どもと遊ぶ」が簡単にできるでしょうか?

「子ども」という「遊び」の存在

ご存知のとおり、子どもという存在は、誤解を恐れず言えば、非効率そのものです。さらに誤解を恐れず言えば、子どもの「遊び」はその最たるもので、無駄そのものであることも少なくない。

お座りができるようになった赤ちゃんが満面の笑み(もしくはやけに真剣な表情)でティッシュひと箱分の「雪を降らせ」、唖然とした経験がある親御さんは少なくないと思います。

(二人とも、一回以上やられました…感染症時の看病に使ってたゴム手袋の箱とか、それも一番やってほしくない忙しい時に、やってほしくないもので^^;)

「遊び」=「無駄」がミュージカルになる社会

それを楽しめる余裕があるか。レット・イット・ゴ~♪ できるか。

悲壮感漂うお利口なエルサから、奔放さを受け入れたミュージカル女優のエルサになれるか!!!!

子どもという無駄を楽しめるか否かは、まさに、その子どもに一番身近に関わる大人に余裕があるか、にかかっています。そして、その大人の余裕は、周りの大人が、どれだけその人を支えているかに大きく左右される、と思うのです。

それには、血縁か否かに限らず、「他人」の子も同じ「人」の子、という意識が普通である状態が、欠かせないと思うのです。子どもを大人がみんなで、温かい目で見守り育てられる、そういう意識を、子どもを持つ親も、周りの大人も持って関わる。

子どもはみんなで育てる、を取り戻すための場を

それが普通でなくなってしまった日本の今だから、そういう場が必要だと強く感じています。


子育てにたくさんの手が重ねられる世の中になりますように。


蛇足:マタハラ・モラハラ社会の必要悪には、プリキュア的必殺技をお見舞いするのよ!!

「子育てにたくさんの手が重ねられる社会」。

その対極は、たとえば【子ども連れの親が電車などの公共の場所で肩身の狭い思いをする社会】。【妊娠したり産休育休を取る社員に、肩身の狭い思いを感じさせる会社】。【子育て専従者の価値を低く見積もり、家庭への経済的貢献が発言力とばかりに相手の家事に依存するパートナー】。

旧体制なんだよ、絶滅してしまえ!!

と、自身の経験から恨みがましく思ってしまいますが(心から苦笑)(全部経験済←それな~)(ええ、もう怨念レベルですよ。笑)、それを一段階引き上げた視点から見ると、その【旧態依然の既得権益の上にあぐらをかいている怠惰極まりなく学びなき可哀そうな人々】も、百歩譲って、そういう風に育ってきたから、なんというか、潰すべき悪、として敵とみなして戦っても、しょうがないのです。

彼らはそういう価値観の中で、そうなるべく育てられてきて、それを自ら学ぶことで刷新する心構えも教えられることなく、こんな可哀そうな大人になっちまった。そのことにより、彼(ら)も心の寂しさを満たせずにおり、その満たし方も見当がつかず、他人に横柄な態度や文句を言うことで、それを見当違いにも解消しようとしている。可哀そうなのです。

愛しかないと思うのです。


だから、それに気づいた素敵なあなたが、自分からもっと幸せな人とつながって、自分を満たして、溢れる愛のおすそ分けをすることで、包んであげるしかないと思うのです。プリキュア的※ に。

※プリキュアに馴染みのない方に…ラスボスは仲間全員で大きなピンクのハートを投げつけて、改心させることで昇華させる、みたいなやつです♡

敵は、倒さないのだ。






🍀スカーレットのしごと:
そんな余裕のある大人が増えるように。英書を翻訳しています。

わたしも、もっと余裕つくりたいにゃ~!毎日ぱっつんぱっつんじゃ。でもマインドセットの面で、この本との出会いが、余裕を「つくる」のを、助けてくれています…

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