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音のない言葉

最近、ドラマや映画の題材として手話を目にすることが多い。
"コーダあいのうた" "silent" "星降る夜に"

たまたま自分が見た作品がそうであったのか、手話がテーマだから興味を持ったのかは自分でもわからない。

silentを見ていると、何度も出てくる手話は自然といくつか覚えていった。
あのゆったりとした作風だったからこそ、静かで心地の良い手話がもたらす意味を噛み締めることができたのだと思う。

初めて手話に興味を持ったのは"ヴァンサンへの手紙"という作品だった。
神奈川にあるシネコヤという大学時代お気に入りのミニシアターで見た。
どんな世界も知りたい、という欲から映画のジャンルを問わず見ることは私のルールなのでドキュメンタリー作品を見ることはあったが人生で初めて感銘を受けたドキュメンタリーだった。
当時の私は感想をこう記している。

「聞こえない世界の中の表現の美しさ
聞こえる人はその美しさを理解することができるけど聞こえない世界の人は聞こえる世界の中の表現の美しさを理解することはできるのかな?それはできないと今のところ思うからもしそうなら上とか下とかの話じゃなくて、やっぱり聞こえてよかったと思う。」

こんなにも手話とは美しい言葉だったのか、という気持ちと同時に音のある世界の尊さを実感した。

このnoteを書き始めたのは星降る夜にを見ていてある気づきがあったから。
作中で千葉雄大演じる春は、胸に秘める想いを音のある言葉で伝えることはできず、手話を介してならば話すことができた。
春も私も第一言語は日本語だ。私のいわゆる第二言語は英語にあたる。春の第二言語は手話。
私は日本語で話す時と英語で話す時、心持ちが違うことを感じる。英語であれば、よりオープンマインドになり日本語ならはずかしさや気負って言えないことも気楽に伝えることができる。
もちろんそこにはその言語の持つ特性が関係している節も大いにあるが、第二言語、という点も関係しているのではないかと感じた。
100%自分のものとなっていない言語、借り物の感覚のある言語、間接的な手段となりうるのかもしれない。

話は変わり、私の祖母は中途失調者である。
私が生まれた頃には聞こえなかったため、幼い頃から大きな声で話しながら身振り手振り、口の動き、手で文字を書く、などは当たり前だった。
その身振り手振りの中には祖母から教えられたり、勝手に作り上げた独自手話がいくつかある。祖母も手話を知らなかった。
時が過ぎて私が大学に入ってから、ボケ防止や趣味という意味で祖母が手話教室に通うようになった。
教室の友達との交流がメインである祖母はフランス語教室に通い日本語メインでお喋りしてる母と同様、手話はそこまで上達していない。笑
それでも覚えた手話をいくつか披露されることはあったが、覚える意欲が私は持てなかった。

前述した3作品を通して手話に興味を持ち、就職で祖母の家の近くに越してきた今のタイミングには意味があるのかもしれない。
毎週木曜日の手話教室に近いうちにお邪魔することにした。
日本語、英語、手話を自分の守備範囲としていくのが新たな目標となりつつある。

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