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自己束縛からの解放。社会へのアンチと皮肉。これぞAgust D。「Haegeum 해금」|D-DAY(2023年)

忘れもしない、2021年3月12日(金曜日)。
その日。
突然「BTS」の沼に落ちた新規ARMYです。

そして、クリエーターとして信用できるところ…創作者/表現者としてのミン・ユンギ|MinYoongiを推すタイプのユンギペンです。
どこか不完全で、つねに焦りを抱えていて、誰よりも、次はもっとうまくやってやろうと目を凝らして世の中を見ている。
“天才”のように言われるが、すべてが不安、準備、先回り。
周りの期待を慎重に汲み、つねに少しだけ期待を超えて相手を安心させる。
それが私のミン・ユンギです。

民族音楽と反骨精神

Agust Dによる三部作(トリロジー)の2作目「D-2」に収められ、Agust Dの代表曲となっている「Daechwita 대취타(大吹打)」に続き、民族楽器の音を取り入れている「Haegeum 해금(奚琴|ヘグム)」。
民族音楽によって韓国が持つ独特の力強さと反骨精神が表現されている楽曲はまさにAgust Dの真骨頂。

「Haegeum(ヘグム)」には二つの言葉を重ねているという。
ひとつは「奚琴|해금(ヘグム)。
もうひとつは「解禁|해금(ヘグム)」。

楽器の「奚琴|해금(ヘグム)」は、“2本”の弦を弓で弾く楽器。

この “2本” が、例えば「白と黒」「善と悪」のような二極の象徴だとしたら、その二極の間を行き来し調和させ、間にあるもの(=中庸)として当たり前の価値(どちらでもないもの、極端ではないもの)を再定義する、まさにミン・ユンギのテーマ(願い)なのではないか。

ミン・ユンギが苦しめられてきた、「アイドル」「ラッパー」「K-POP」などのラベルによる束縛、SNSやメディアによるアノニマス(顔のない)の無責任な批判やデマ、旧型にはめようとする言葉。

それらから“解放される”、と自ら宣言する。
もちろん、そのまま社会へのアンチテーゼであり、問題提起でもある。

果たしておれたちを禁じているのは何なのか?
たぶんそれはおれたち自身じゃないのか?


その自らで自らに禁じていたものから“解放される日”が「D-Day」。

不安や怒りから自らを解放し、未来への恐れも振り払い「D-Day」を迎えた後、何を見せてくれるのか。
ミン・ユンギの次のチャプターが楽しみ。

表現の自由の無責任さへの批判

この「Haegeum(ヘグム)」で歌われている一文。

表現の自由
もしかしたらそれは誰かにとっては死の事由

メディアやSNSなどで“表現の自由”の下で発信され拡散されるデマや無責任な記事。
それらに追い詰められ命を落とすことになったと思われる出来事は、韓国でも日本でも起きている。
K-POP - BTS(防弾少年団)の近くでも起きていて、そのことに胸を痛めているのだろう。「Haegeum(ヘグム)」で、その“表現の自由”の重さ、信念なき情報発信の罪を責めるミン・ユンギ。

そして、同じアルバム「D-DAY(2023年)」に収めている「Snooze」では、苦しんだ自分と同じ轍を踏まないよう、後輩たちに救いのメッセージを送るミン・ユンギ。

きみを迎え入れてくれたその手が
ひるがえってきみを指差す非難に変わったら
大きくた息を吐き悪態をついてやれ
きみだって人間さ
ほかのみんなと同じなんだから

Snooze(feat. Ryuichi Sakamoto、김우성 of The Rose)

「Haegeum(ヘグム)」と「Snooze」は、「Agsut D」というペルソナ(人格)に自ら怒りや疑問を吐き出してきたミン・ユンギが、その経緯を経て外=取り巻く社会と続く後輩に向けて発したメッセージであり、自らの経験したことと内面(怒りや疑問)を楽曲に昇華させる過程で、“誰かの夢になった”責任を果たす楽曲だと言える。

その点で、先の2つのMixtape「Agsut D」と「D-2」に対し、三部作の最後と位置付け取り組んだミン・ユンギが自らを “解放”する免罪符がアルバム「D-DAY」なんだろうな。

「Haegeum 해금」|D-DAY(2023年)


...と勝手なことを書きました。
「Haegeum 해금」のここが好き、ここをこう読んだ、など聞かせていただけると嬉しいです。
ぜひコメントを、お願いします💙

〈これ聴いて♪〉



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