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モスクワに留学していたら戦争が始まった話-4

↑前回 サンクトペテルブルクでの記録(2月11日)


クレムリンの大統領旗

 モスクワは美しい街だ。煌めくクレムリン、正教会たち、ソ連時代に築かれた荘厳なスターリン・ゴシック様式の高層建築たち、そして近未来的な超高層ビル群。その全てが混沌と入り交じりながらも、独特な調和を形成して豊かに日々が過ぎていく。これほどまでに心が躍る街は、私にとってこの星には2つとない愛おしい存在である。

混沌さが生み出す調和と美がそこにはある

 しかし、それをもってしても冬は辛く厳しいものである。日本でそう話すと多くの人は「寒いでしょう」と言うのだが、実際のところ寒さは案外どうにでもなるものだ。-10℃くらいならしっかり着込んで防寒すればそこまで辛いものではないし、何より部屋がしっかりと断熱されていてセントラルヒーティングが暖かいので、日本よりも快適に過ごすことができる。
 問題は、常に雲が空を覆い続けていることだ。ほとんどいつも雪がしんしんと舞い落ちており、降っていないときでも太陽が顔を覗かせることは稀なことである。太陽が出ないだけ、たったそれだけのことかもしれないが、これが意外としんどいのだ。確かに灯りに照らされて輝く雪、そしてその宝石のような光に包まれる街はため息が出るほど美しいものだが、1週間もいると気が狂いそうになる。

これだけきれいな建築でも、冬の暗さには勝てない

 これはどうやら単なる気持ちの問題だけではないらしく、人間は日光を浴びることで体内でビタミンDを生成しており、日光がないとビタミンも生成されずに不足して気持ちが沈んでくる…という科学的根拠もあるのだとか。何にせよ万人が思っている以上にこれは深刻な話なので、在ロシア日本国大使館が発行している『滞在安全マニュアル』にも「冬季うつの予防」「ビタミンD不足」という題できちんと対処法が掲載されており、「日が照る低緯度地域に旅行する」「サプリを飲む」ことが推奨されている。
 まあ科学的根拠があろうがなかろうが、外務省がなんと言おうが、兎にも角にも実際に生活していて苦しいことは間違いないのだ。ルームメイトがいない寮暮らしは頗る気楽である一方で、日常レベルでの話し相手がなかなか見つからないこともまた苦しさに拍車をかけていた。

快適な部屋だったが、壮絶な気持ちになる夜も多かった

 だからこそ、街に出ることが唯一の救いであった。あまりにもベタかもしれないが、私は赤の広場の近辺を歩くことが特に好きである。
 幸い市街地に近い寮であったため、メトロに乗って乗り換え1回の15分で赤の広場の最寄駅であるТеатральнаяチアトラリナヤ(劇場)駅にたどり着くことができた。もっとも私は、時間的に余裕があれば1駅手前のТретьяковскаяトレチャコフスカヤで下車し、モスクワ川にかかる橋を渡って赤の広場を目指すことを何より愛していた。

モスクワ川から 夜のクレムリン

 モスクワ川にかかる橋からはクレムリンと赤の広場はもちろん、スターリン・ゴシックの高層マンションや金色ドームの救世主ハリストス大聖堂、温水工場の煙突、そしてモスクワ・シティの超高層ビルまで、「これぞモスクワ」という景色を中心部の地上にいながらにして一望することができる。

独特なスターリン・ゴシック様式の文化人アパートと、工場の煙

 さて、それでは肝心の赤の広場に辿り着いて何をするのかと、それまでの道のりと何ら変わりはない。ただその美しさに見とれて、うっとりするだけの尊い時間を過ごすだけだ。
 聖ワシリィ大聖堂、ロシア歴史博物館、クレムリンの塔、宮殿、そしてグム百貨店……これらの建造物が調和して成り立つ広場は、たとえ定番中の定番として確立する名所であったとしても一切の嫌みが無く、何度訪れても飽きることのない貴重な場所である。

これ以上に言うことはない、美しい場所だ

 さらにグム百貨店に入ると食事をとることだってできる。「主婦を台所から解放する」という思想をもって展開されたソビエト式大衆食堂Столоваяスタローヴァヤは手軽にロシア料理を食べられる場所としてしばしば話題に上るが、旧ソ連全土にピンからキリまである大衆食堂の中でもかなり上質なものを提供してくれる場所が最上階にあたる3階に存在するのだ。
 高嶺の花である百貨店の最上階でちょっと贅沢なご飯を食べて帰るという理念は、どうやら数十年前のソビエトも日本も変わらなかったらしい。

見た目に彩がないが、各々程よく味が際立っていて美味である

 腹ごしらえを住ませてグム百貨店を出る。目の前に立つのは大統領宮殿、あの愚かな指導者の執務場所である。丸い屋根の上に掲げられた国章入りの正方形に近い三色旗は大統領旗で、彼がクレムリンにいる時に掲げられるのだという。まあ、だからといって必ずしも本当にそこにいるわけではないと思ってはいるのだが、この先行きの分からない情勢の中でつい壁の向こうから心の中で彼に問いかけてしまうのだ。
 「プーチン、あなたは一体何を考えているんだ?巷では散々国境での軍事集結が騒がれているが、本当に何がしたいんだ?本当にやる気なのか?ただの脅しなのか?はっきりしてくれよ!」
 開戦から1週間と少し前、私は大統領旗を見つめながら念を送るようにそう思った。いくら日本で著名で実績のある専門家たちが語り合ったとて、最高権力者の本心など誰も分からない。もちろん壁を隔てて百数メートルの場所にいたとて、分からないのは私だって同じである。
 それでも、もし本当に彼があの場所にいたのだとすれば、激論に燃える日本世論の中であの瞬間一番彼と近い位置にいたのはおそらく私だ。それが何の意味もなさないことはよく分かっていたが、せめてこの場所にいるならば、少しでも強く念じ、祈ることで不安定な未来への疑念を紛らわすことを試みたかったのだ。

この時、本当に彼はあの場所にいたのだろうか。

事実上の開戦前夜として

 2月21日、ふとラーメンが食べたくなった。基本的には自炊で事足りる日々だが、たまには外でロシア流和食を食べてたくなる日がある。ちょうどモスクワに新しい日本料理店がオープンしたという話を聞きつけ、ますます行ってみたいという気持ちが強まっていたところだった。
 その日は自分にとって少し特別な日でもあった。2019年2月21日、私は人生で初めてモスクワに降り立ったのだ。あの雪降る首都に出会った時の感動は死ぬ時まで忘れることはないだろうが、その感動を再び味わいに散歩をしようとも思っていた。

 さらにもう1つ予定が入った。4カ月前からモスクワに留学していた友人と会う約束を取り付けたのである。異国で同胞ばかりと群れることを私は決してよしとしないが、さすがに寮で1人誰とも話すことなく日々過ごしていた当時の自分にとって、日本人の友人と会うのは僥倖というほかなかった。

スターリン・ゴシック様式の中でもひときわ整った出で立ちのモスクワ大学・主要棟

 モスクワ大学、いや、モスクワのシンボルでもあるГлавное зданиеグラヴナエ・ズダニエ(主要棟)にて待ち合わせた友人と出会い、散歩がてらスーパーに行ってジョージアワインを買った。セミスイートで飲みやすく、それでいて豊かな風味と味わいが魅力的なキンズマラウリは日本では高級品だが、モスクワでなら1500円ほどで手に入れることができる。寮は禁酒なのだが、こっそり日々の楽しみに飲んでやろうとほくほくしながらそれをリュックサックにしまった。
 そのあとは地下鉄に乗って中心部に出る。奇遇にもその友人は私と同じように、Третьяковскаяトレチャコフスカヤで降りてモスクワ川にかかる橋を経由して赤の広場に至る道を愛する、いわば同志であった。ただその日はオーソドックスにОхотный Рядアホ―トニー・リャト駅で降りて赤の広場に向かうこととした。

ジョージアワイン・キンズマラウリ この数日後、開戦前夜の大きな記憶の標となる

 途中、Охотный Рядアホ―トニー・リャト駅のコーヒースタンドでホットココアを買って地下通路をくぐり、地上に出る。相変わらず泰然として揺らぐ大統領旗を睨みつけるように見つめながら聖ワシリィ大聖堂の横を通り過ぎ、クレムリンの裏側を歩みを進める。オーソドックスな散歩を始めたとはいえ、やはりモスクワ川にかかる橋から眺めるモスクワは捨てがたいということで、Третьяковскаяトレチャコフスカヤまで結局歩くことにした。

まさに目まぐるしく動くニュースを眺めながら、宮殿を見つめる

 あの日もモスクワは美しかった。しかし、その日はもうすでに純粋に美しいだけの日ではなくなっていたのだ。
 我々がモスクワを歩いていたまさにその時、深刻なニュースが流れていた。それはロシアが2014年にウクライナ東部に侵攻した際、傀儡国家として建国を支援したドネツク人民共和国・ルガンスク人民共和国(いわゆるドンバス地域)の両国を、プーチンが独立国家として承認しようとしていたのだ。むしろまだ承認していなかったのか、という感想はあるかもしれないが、だからこそ東部侵攻から8年経った今このタイミングで承認することを決定した意図を推察すれば、状況は極めて深刻だった。
 情勢はその数日間で急激に悪化する様相を呈していた。在ロシア米国大使館は「予期せぬ攻撃の可能性がある」として、モスクワやペテルブルグなどの都市部に在住する自国民に対して「中心部を出歩かないように」とアラートを発していた。結果論から言えばその後に露骨な攻撃が中心部で多発したわけではないのだが、こちらとしても不安にはなる。
 ただ、それでも我々はそのアラートを見て見ぬふりをして煌めく街の中心を歩き続けた。しかしながら、国家承認のニュースだけは街を歩きながら血眼になって追い続けていた。

アラートが出ても、この美しい景色を避けて生きようとは思えないのだ

 地下鉄の駅に辿り着き、ベラルスキー駅に至る。その当時から3年前、モスクワに降り立ったその時刻に合わせてプラットフォームに立つ。感慨にふける瞬間を全ての文脈を説明したうえで友人に観察されるのは少し恥ずかしかったが、やはりこみ上げるものは山のようにあった。まさか留学生としてこの街に立つ未来があるだなんて、2019年には思いもしなかったことだ。 

3年越しのささやかな感慨・お祝い事
アエロエクスプレスでベラルスキー駅に降り立った19時10分ちょうどに合わせて

 それはそうと、その美しい記憶と目の前に広がる現実を心の底から純粋に楽しむことはできなかったはずだ。2人でTwitterにかぶりつき、ニュースを追う指は止まることが無かった。
 まず大前提として、国際法と人道に大きく反する侵略行為によって建国された傀儡国家を承認するなど、言語道断である。だが、その時注目されていたのは「その先」にあること、すなわち再度のウクライナ侵攻の可能性であった。

ベラルスキー駅 街側のロータリーから

 結論から言えば、その日、その最悪の事態に至る可能性は一気に高まった。実際の開戦前夜は2022年2月23日だが、「これは絶対に何かが起こるし、避けられない」と本気で確信したのは2月21日であり、まさしく事実上の開戦前夜だったと認識している。
 なにより絶望的な未来を色濃くしたのは、プーチンによる国民向けのテレビ演説である。彼はただ「ドンバスの2国を国家承認する」と言ったのではなく、「本来ボリシェヴィキとレーニンが築き上げたウクライナは西側の思想に侵されており、そのような国に主権など存在しないし、ロシアにとって安全保障上の危機である」ということを執拗に繰り返して主張したのだ。
 これを妄言と呼ばずに何と呼ぼうか、狂気の沙汰である。極めて悪いことに、これは核兵器を含む莫大な軍事力を有した国連常任理事国の最高権力者の発言なのだ。冗談じゃない、と笑い飛ばしたいところだったが、如何にもしようがない現実であった。

モスクワの和食屋 横浜中華街でよく行く場所が壁面になっていたのには度肝を抜かれた

 私と友人は夕飯に入った和食屋でひたすらプーチンの演説を見ていた。
 まず何より店の名誉のために言うが、ラーメンはかなり美味であった。豚骨味噌ラーメンはザラつきのあるこってりとしたスープで、麺とチャーシューのクオリティも上々である。日本で出店したとしても、問題なく流行るレベルの味といっても過言ではない。
 ビールもなかなか良かったことを覚えている。更に店のマネージャーらしきマダムがなぜか少し上質なビールをサービスで振る舞ってくれたのも、かなり良い思い出である。

豚骨味噌ラーメン 海外でこってり系ラーメンは貴重なのでかなり愛した

 しかし、情勢は深刻だった。もはや「これはまあダメだろうな」という一言で片づけるしかない程に、最後の覚悟が決まった夜であった。その時はまだ戦争を始めるとプーチンが明言したわけではないが、彼の極めて歪曲した歴史観は想像を遥かに超える狂気を孕んでいた。
 国家元首がそのような思想を開陳してしまった以上、彼が正気に戻るビジョンは一切見えなくなり、軍事演習をただの脅しと言い切ることは一層難しくなった。「少なくとも東部ウクライナへの攻撃は避けられないだろう」というのが、当時の私の直感的な見立てだった。そして再びまた、チェレポヴェツ駅で目にしてしまった軍用列車と、そこに乗り込んだ若い軍人たちの姿が脳裏をよぎった。

店のマネージャーが振る舞ってくれたビール

 ただ不思議なことに、その時の私は和食屋で気に入ったラーメンの味を忘れるほどに絶望したわけではなかったのだ。あの日過ごした思い出は美しい思い出として、決してすべてが台無しにはならなかった。当然非常に惑わされはしたが、実際のところかなりの程度割り切ってニュースを受け入れていたものだ。
 それが正常化バイアスだったのかどうかは分からないし、最終的に友人とは互いに渋い面持ちで別れたことはよく覚えている。おそらくは、結局「自分が住んでいる国が戦争を起こす」というビジョンが到底実感をもって想像できなかったということなのだろう。
 まさにそれこそ正常化バイアスの一種なのだが、やはり「戦争」という現実は、教科書に記された歴史の記述やニュース記事を読むだけでは真に理解することなどできないのだ。

小洒落た手洗い場は清潔で趣があった 店としてかなり気に入っている

 夜10時の地下鉄は相も変わらず賑わっていた。不安はあれども、何だかんだきっとこんな日常が根底から続くだろうし、自分はどうにかこの先もモスクワで死なずに暮らしていくことができるだろう。この情勢に対する大きな覚悟の後にそうぼんやりと考えながら、車両の窓に反射する自分の顔を見つめていた。

オレンジ線は愛する“地元路線”だった

↓次回 2月23日(開戦前日)の記録


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