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Счастливые города-2


Лесная

 油を熱し、ニンニクを投入する。まだまだ調理の序盤であるが、ふわりと立ち込める香ばしい匂いに既に思わずうっとりとしてしまう。やはり広いキッチンは良いものだと、私は小躍りになりながら鍋を揺らした。
 「ナターシャ!マジでいい部屋だな、ここ!」
 隣室で荷ほどきをしている親友に声を張り上げて呼びかける。新居での準備に忙殺されている彼女よりも、引っ越しから押しかけてきた客人の私の方がよほどはしゃぎまわっているようである。
 「でしょ!マーシャさんが紹介してくれたの。周りに住んでる人たちも優しいから安心して住めるって。」
 「そりゃ尚更いいことだ!」
 ナターシャに返事をするのと同時に肉を鍋に放り込み、じわりじわりと焦げ目がつくのを待つ。それから塩コショウを振ってまんべんなく火を通す。あとは野菜を入れて、全体がしんなりとしたら水を入れて放置するだけだ。
 「風呂場も広そうだし、何より寝室が2つもあるのがいいな。居候にはばっちりだ。」
 煮込み料理は最初の下準備こそ大変だが、それさえ終わればあとは待つだけなので案外楽なものである。そんなことを考えながら洗い終わった調理具をシンクの横に干していると、匂いにつられてナターシャがキッチンの前までやってきていた。
 「いつでも来てね!イワンとかジェーニャさんも呼んでパーティーしよう!」
 ナターシャに視線を向けると、彼女はなぜか電源コードが絡まったドライヤーを持って指をぐちゃぐちゃと動かしている。どうやら荷物を詰め込む際に雑に放り込んだものがほどけないようだ。
 「イワン、さっき一緒にハチャプリ食ってきたけど元気そうだったよ。ここで酒でも飲んだらまた楽しいだろうな。」
 生まれも育ちも、そして職場までもモスクワで生き続けている私だが、大学時代に参加した交流事業のおかげでペテルブルグに暮らす友人には恵まれていた。今日の昼飯に誘ったイワンもまた、交流事業で一緒になったナターシャの同期である。
 「いいな~!今度ハチャプリここで焼く?」
 「ハチャプリって自作できるのかよ?」
 ナターシャの唐突なアイデアに驚きつつ足元を見ると、立派なオーブンが据え付けられていた。確かにこれなら手先の器用さがあればハチャプリが作れるかもしれない。ナターシャはガサツなところはあるが、ケーキ作りは見事なのでおそらく問題なく焼けるだろう。
 「あと、煙草はそこのバルコニーでなら吸えるから!」
 「おお、こりゃいいな!早速いただくとするか。」
 ふとナターシャが指さした先には、温室のように窓で囲われた小さなバルコニーがあった。ソ連式の集合住宅にはしばしば設置されている区画ではあるが、安アパートに住む私の部屋にはない贅沢な空間だ。本当に素晴らしい部屋だと思いつつそこに歩み出る。
 薄い窓の向こうに広がっていたのは、パステルカラーに彩られたソ連式団地と、荒涼とした郊外の工場や何かの集積地、そして細い煙を上げている煙突であった。ペテルブルグは中心部の文化的な街並みがしばしば取り沙汰されるが、郊外に出ると地方特有の濃密で乾燥した街並みが続く。
 もっとも、私が本来落ち着くと思えるのはこのような景色だ。空の果ての奥深くまで人々の営みが染み込み、その瘴気にも似た雑念の集合体がむせ返るほどに立ち込めてくる姿に圧倒されながら吸う煙草は、この世で最も美味いものである。
 しかしやはりペテルブルグはどうも分からない街だなと、軽く頭をもたげながら3月の冷気に包まれた煙草を思い切り吸い込んだ。

 ナターシャの引っ越しが決まったのはつい2週間ほど前のことである。彼女がしばしば語っていた部屋の広さにも清潔さにも、そして隣人にも恵まれないアパートの愚痴話には、他人事ながらいつもうんざりさせられたものだ。そんなストレスフルな生活を見かねて、以前から彼女の仕事ぶりを買っていた上司のマーシャが、ペテルブルグの北側にある郊外に部屋を用意してくれたのだという。
 奇しくもその頃、私はなんとなくペテルブルグに行きたい気分になっていた。特段何かランドマークを見ようという気持ちも今更ないが、仕事詰めの日々で気分転換に出向くのにはちょうどいい場所なのだ。大学時代の友人もいるとなればなおさらである。
 ナターシャとの電話口で、私は引っ越しの手伝いというなかなかに聞こえが良い口実ができたとほくほくしながら、その場でペテルブルグ行きの切符を予約した。永遠の「モスクワ派」であるが、半年ぶりのペテルブルグに降り立つことは純粋にうれしかった。

 「うん、やっぱりレナトが作るボルシチが一番おいしい!ママのよりもおいしいかもしれない。」
 「そんなわけない、お母ちゃんのボルシチをもっと愛でてあげなよ。」 
 気が付けば日はどっぷりと暮れ、私が仕込んでいたボルシチは程よい煮込み具合になっていた。ナターシャは美味い美味いと食べてくれているが、私としてはどうも味付けが濃すぎるような気もする。だがまあ、許容範囲だろうと思いつつスプーンを持つ手を進めた。
 「それで、イーゴルは結局ぺテルブルクに帰ってきたの?」
 「そうそう、エンジニアだからすぐに新しい仕事見つけて元気に働いてるよ。やっぱりモスクワは嫌だって言ってね。」
 アルハンゲリスクを散々こき下ろしていた私の同僚のイーゴルは生粋のペテルブルグっ子だった。会社に入った当初は現場の艦船エンジニアとしてペテルブルグで働くつもりだったらしいが、どういうわけかモスクワの本部事務所に配属されてしまい日々呪詛を吐いていたのだ。
 しばしば私は冗談で「いっそぺテルブルクで転職したらいいんじゃないか」と彼に言っていたのだが、まさか都市の空気が合わないからといって本当に仕事を辞めてしまうとは思いもしなかった。もっとも、モスクワだけではなく「終わっている」都市に出張に行かざるをえなかったのも堪えたらしいが。
 「ナターシャがここに引っ越すって言ったら顔しかめてたよ、あそこはヤク中ばっかり住んでるって。」
 「あの人、気に入らない街を罵倒する時のレパートリーがそれしかないじゃない。」
 思わず笑い声が漏れる。以前に2回ほど、ナターシャがモスクワに遊びに来た時にイーゴルを誘って夕食に行ったことがあった。私はぜひペテルブルグの話題で盛り上がってくれという気持ちで2人を引き合わせたのだが、想像上にイーゴルが「終わっている」街の愚痴ばかり吐いてしまい、彼女は終始苦笑いしていたのだ。
 「まあ、最近は本当にヤク中がまた増えてきてるらしいからな。」
 そう言いながら私は卓上のワインを口に含んだ。どうやらアル中もまた同様に増えているらしいという話も聞くが、やはりアルコールは上品なものに限る。私は幸い煙草以外の薬物にのめり込むことはなかったが、一方で最近のこの厳しいロシア社会の状況ではドラッグの快楽に頼りたくなる気持ちも少しは理解できると思った。
 「じゃあ逆にレナトはペテルブルグに転勤になったら、仕事辞める?」
 ふとナターシャが真顔に戻ってこちらを見つめてくる。急に話題の矛先が私の人生に変わったので私は少したじろぎつつ、目を伏せて無言で考え込んでしまう。ペテルブルグとモスクワという2つの街についてナターシャとは何度も語り合ったことがあるが、このような直接的かつ具体的な質問は初めてだった。
 「これくらい広い部屋に住めるなら許せちゃうかもね。」
 「なにそれ、部屋の問題?」
 私がしばしの沈黙の後に冗談っぽく答えた言葉に対して、ナターシャは思っていた以上に訝しげに聞き返してきた。あながち冗談でもなく、分かりもしない未来のことを真面目に考えても仕方がないというのが本心だった。ただ純粋に、どうせ自分がモスクワ以上に愛せない街に住むならせめて快適な家に住みたいのである。
 「オレにぺテルブルグはもったいないんだよ。残念ながらオレは野蛮な人間だから、文化資本がもたらす幸福を上品に享受できない。」
 私は何度言ったか分からないほどの常套句を再び口にした。少し卑屈っぽいような気もするが、この言い方をすれば誰も傷つけないだろうと、自然に編み出した表現である。そしてナターシャもまた、「はいはい」と言わんばかりの表情をしていた。
 だが、これもまた本心なのだ。私はペテルブルグを毛嫌いしているわけではないし、むしろこの街が蓄積してきた歴史と文化の重みは街の随所で仄かに感じ取ることはできる。それは間違いなくこの街にだけにとどまらない、ロシアそのものにとっての財産であろう。
 しかし悲しいかな、私は私の魂をこの街が醸し出す重みにチューニングをすることができない、それだけの話なのだ。
 「モスクワに文化がない、ってことはないと思うけどね、私は。」
 ナターシャが口にした言葉はイーゴルの常套句だが、その他少なからぬペテルブルグっ子がそう語るのを耳にしたことがある。これに関してはナターシャの言う通りで、私もまたその都度一通り反論はしている。
 「そうなんだけど、オレはモスクワの文化資本に対しても共鳴して生きているわけじゃないんだ。」
 「あの圧倒的な情報量とカオスに惚れてるっていうんでしょう?」
 流石よくお分かりで、とうなづいて私はワインを飲み干した。アルコールが頭に回って少しずつ思考に霧がかかったような気分になる。何度も語った話ということもあって、このままナターシャの合いの手に全てを委ねたいような心地になっていた。
 「分かるよ、モスクワは本当に面白いし、飽きないだろうね。でも私は疲れちゃうの。」
 「疲れないさ、あの渦に身を任せていれば何も考えずに生きられる。」
 クレムリン、正教会、スターリンの七兄弟、煙突、オスタンキノタワー、そしてモスクワシティ———すべてが異質なのに、不思議とすべてが調和して纏まった混沌。郊外にありがちな重苦しい狂気も全て包み込んでくれるような包容力に、モスクワの愛情に、私は甘え切っていた。むしろ中心地の端正さと郊外の殺気の落差が異様なペテルブルグの方が私は疲れると、内心ではいつも思っている。
 「結局オレはモスクワを愛しているんじゃなくて受動的に依存しているだけなんだ。何にも考えちゃいない、だからどんな都市でも上っ面だけなら付き合えるし、きっとモスクワに対しても本質的に愛しているわけじゃないんだろう。」
 そうだ、何も考えたくないだけだ。明晰な意識を手繰ることを完全に放棄しつつあった私は、部屋のどこともつかない場所に焦点が緩慢になった目を移し、黙り込んだ。
 「そんなんだから彼女にフラれるわけね。よく自覚してるじゃない。」
 「なんだって!?」
 そうして私の手を離れつつあった意識は、ナターシャのいたずらっぽい笑いで突如として帰還を果たした。なんとも槍で叩き起こされたような心地である。
 「モスクワちゃんも、人も、ちゃんと自分の頭で考えて愛しなよ。いつまでも甘えてないで。」
 「母親か、あんたは。」
 悪友のナターシャに言われるには全く不本意な話であったが、全て反論のしようがない図星だったために私は苦虫を嚙み潰したような顔で歯を食いしばるしかなかった。ナターシャは絶えず不敵な笑みを崩さずにいる。
 「モスクワじゃなくてもいいじゃない、ほら。自分で考えなおせばペテルブルグの方が案外好きになるかもよ?」
 「それは絶対にない!」
 小さく唸り続けていた私だったが、こればかりはニヤニヤとこちらを見つめるナターシャにきっぱりと言い返した。まだはっきりとした根拠は掴めないが、絶対にモスクワを能動的に愛すことができる理由があるはずだ。ただ甘えているだけではない、心底好きだと思える決定的な意識が私の中にはある。それだけは信じていたいのだ。
 「愛はモスクワじゃなくて、絶対にオレの中にある。」
 「そうそう、その意気でなくっちゃ。」
 ナターシャの顔からはいつの間にか尖った含みが消え、柔らかで純粋な笑顔が生まれていた。しかし、結局自分が何をどう表現したいのかという思考もまた霧の中で消えかかっており、もはや晴らせそうな気配はなかった。
 街に対して、そして何より人間に対して今一度自分の中で総括をしておきたい。常にどこかで抱き続けていた思いは、甘ったるいアルコールの香りとぺテルブルグの仄かな海風によって今夜も遠いところへ行ってしまった。
 いつまでも先延ばしにしておくわけにはいかないが、たまにはぺテルブルグに甘えてみるのも悪くない。そう綺麗な言い訳を想いながら、全ての思考をそっとまた霧の向こうへ見送った。

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