健全な批判精神を可能にする想像力

例えば、 “金持ちが幸せかどうかは自分が金持ちになってから言え”とか、 “学歴が必要ないとかは、自分が東大に入ってから言え”といった様な極端な言い方がごく当たり前のようにされているのをよく目の当たりにする。それと似たような事で必ず現れるのが、例えばプロ野球選手が不味いプレーをした際にそれを一般人が批判した時に、 “だったらお前は出来るのか”といった言い方をする人だ。こういった事をごく平気に当たり前の様に言う人達に対する違和感は、普段から筆舌に尽くしがたいものがある。

こういった人達の論理に当てはめて考えると、例えば殺人者の気持ちは人を殺した事が無いから分からないし、総理大臣の気持ちは総理大臣になった事が無いので分からない、となる。結果、何も言えなくなる。当たり前の事だが、人を殺す体験や総理大臣の体験を実際にする人はごく少数に限られる。人間一人の一生で体験出来る事など、どんなに経験豊富な人生を歩んだとしても、人類全体から見ればごくちっぽけなものに過ぎない。

金持ちになった事がなくても、東大に入れなくても、プロ野球選手になる技術が無くても、あくまでも自分の意見として健全に批判する事は出来る、と私は思う。ただ健全に批判する際に一点必要になってくるのは、 “もし自分が当事者なら”という想像力ではないだろうか。この想像力が持てるか持てないかが、”健全な批判”と “ただの悪口”とを分けると思う。日本社会では、この2つがごっちゃになっている上、冒頭の様な発言をする人も多い為、健全な批判精神を保ちづらい空気がある。健全な批判精神が無いところに、成熟も無いと私は思う。

先頃の川崎の事件を巡っての大御所芸人による “不良品”発言が話題になっているようだが、問題は “不良品”という言葉そのものよりも、その言葉の裏に “自分が加害者になるかも知れない想像力”が全く感じられなかった事が問題だと私は思っている。人間は、それがどんな人間であれ環境や社会情勢が変われば、加害者にも被害者にもなり得る可能性がある。どんな出来事でも、その当事者になる可能性がある。自分自身の体験が無い場合、その想像力だけが健全な批判、自分の意見を可能にすると私は思う。

#健全な批判精神 #エッセイ #当事者 #店主

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