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「控えめ」

 ある親御さんが言っていました。その人のお子さんは、先生から、「消極的だ」と言われるそうです。もちろん悪いニュアンスで、です。しかし、その親御さんは、自分のお子さんをよく観察し、「うちの子どもは消極的なのではなく、控えめなのです。慎重なのです」と言い、そのように子どもさんにも言っているそうです。これこそは親の愛ですね。

 ひるがえって、私の親ならどうか。先生から「お宅のお子さんは消極的です」などと否定的ニュアンスで言われたら、私(子ども)を「心配」し、厳しく叱責するでしょう。「お前は消極的だ!だからお前はダメなのだ!」と。これは、親の愛がない。

 私の親は、ときどき言い訳をします。「あのころは、発達障害という言葉がなかったから、わからなかったのだ」。しかし、そんな言い訳は通用しません。ようするに、親の愛があるかどうかなので。実際、学校で「お宅のお子さんはだらしがない」と言われたら、教師といっしょになって私を厳しく叱責した。そういう教師から我が子を守るのが親の役割なのに。(上に書いた「消極的」と言われても「控えめ」とプラスに言い換えている親御さんのように。)私が色弱だとわかったときは、「色弱は必ず治ります!」という東京にあるクリニックに定期的に通わせた。それ自体は虐待ではないですが、いかに私の親が「心配」するかの例です。私が小学6年のときに、「お宅のお子さんは、このままでは中学へ行ってやっていけません!」と担任に言われたときは、どれほど私を厳しく叱ったか。いま、わけあって両親と3人で実家で暮らしていますが、さきほどの話(「消極的」を「控えめ」と言い換えた親御さんの話)を両親にしても、「それはそうだ(それは立派な親だ)」というふうな反応であり、もっともらしい反応ですが、「自分たちはそういう親ではなかった。いまでもそういう親ではない」ということにはまったく気が付かないようです。

 そして、その幼少のころの心の傷がもとになって、博士課程のときの二次障害に至り、数学者になれるだけの才能があったのに、なれなくなって、現在に至ります。「数学者」と「総務」は対極的な仕事で、かたや難しいことを時間をかけて考える仕事で、かたややさしい仕事をたくさん同時進行でやる仕事で、あきらかに数学者の向いていた私は、事務職など最も向いていない仕事だと思われるのです。でも、あれもだめ、これもだめと言っていたのでは求職活動はできませんし、極めて難しいです。

 残念です。

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