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神は理不尽か?

二十数年前、キリスト教の洗礼を受けた(=信者になった)私を襲ったものは発達障害の二次障害であった重い精神病でした。食事ものどを通らず、希死念慮(死にたい気持ち)が絶えず襲ってきました。あのころは、だれかれ構わず「神は理不尽か?」と聞いていました。ある仲間は「理不尽だよね」と言ってくれました。信頼していた主任牧師は、笑顔で「神は理不尽ではない」と言い切りました。私は計り知れない欺瞞を感じました。当時、神が理不尽でないとは思えませんでした。

いまとなってはその問いの立てかたそのものが稚拙だったとわかりますが、当時の私としてはそれどころではない大問題でした。今思えば「神は理不尽か」というよりも「神は不公平で当たり前」だったのです。世の公平と正義のために戦っておられるかたもいます。しかし、およそ世の中というものは理不尽というべきか不公平というべきか、そういうもので満ちており、それが当たり前なのです。よく「アフリカの子どもたちが飢えている」と言います。しかし、アフリカと言っても広大であるはずで、どこの話をしているのかわかりません。福岡県に住むかたは、「福岡県」と「福岡市」を混同して「福岡」と言われることにも違和感があるというのに、なんという無神経でしょう。とにかくアフリカで飢えている子どもにしても、戦乱で苦しむ人、災害で苦しむ人、疫病で苦しむ人も、テレビで放送しているから知っているだけなのです。

最近、有名人が自殺をなさいました。しかし、無名人の自殺もあります。それは有名にはなりません。報道されないからです。有名な人の自殺は有名になります。有名でない人の自殺は有名にならないのです。同じ命ですけど。

聖書には、病気や障害が奇跡的に癒やされる話がたくさん出て来ます。でも、病気や障害の人はもっとたくさんいたはずです。聖書に載っている話でさえ、ごく一部です。「イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。私は思う。もしそれらを一つ一つ書き記すならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう」(新約聖書ヨハネによる福音書21章25節)と聖書自身も認めています。しかし「イエスのなさらなかったこと」もまたたくさんあるはずなのです。なぜ現代では「奇跡的に病気や障害の癒やしてもらえる話」がないのか。「御霊(みたま)よくだりて昔のごとく」という讃美歌がある通り、御霊がくだっていたのは「昔の話」なのです。

神は人間から見たら理不尽です。でも、それは神様だから当然なのです。助かる人がいる一方で助からない人がいる。運転免許を取得した翌日に交通事故で亡くなった人もいます。苦しんでいる人は戦乱に巻き込まれた人だけではありません。せめて理不尽な目にあったら、隣人に不平不満を言いましょう。そうすれば、ねたみが少し和らぎます。「公平、公平」と叫ぶ人も、結局、ねたんでいるだけなのです。

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