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「教えたがり」

私はかつて中高の教員でした。教員のなかには、かなりの割合で「教えたがり」がいました。自分のことを「先生」と呼ぶ先生に多かった気がします。人の上に立って、偉そうに「教える」のが大好きな人。「お説教」大好き、「居残り勉強」させるの大好き。自分は「時間を無駄にするな」と言っていばっているのに、「お説教」や「居残り勉強」に割く時間はもったいなくないらしい。私はうんざりしていましたが、彼らは上手に世の中を渡って「教師稼業」で食っています。

教会の牧師のことも「教師」と言ったりします。教会の牧師でも「教えたがり」はいますね。信者の上に立って、偉そうに教えるのが好きな人。そういう人が典型的に好むような聖書の言葉を少し挙げますね。

「神は独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、私たちが生きるようになるためです。ここに、神の愛が私たちの内に現わされました。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めの献げ物として御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(新約聖書ヨハネの手紙一4章9節以下)。

こういう、ありがたいのか恩着せがましいのかわからないような聖書の言葉を彼らは好んで引用し、「どうだ、少しは感謝しろ」と説教するのです。「説教」という言葉は、もともとこのような教会での宗教的な説話のことを指していた言葉ですが、転じて、親や教師が子どもを叱るのを「お説教」というようになりました。いつの時代もどこにでも「教えたがり」はいるのです。

この「ヨハネの手紙一」の少し前のページを見てみますと、次のような言葉があります。「子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いと真実をもって愛そうではありませんか」(同3章18節)。「親切・ていねい」という看板を出している弁護士事務所は親切でもていねいでもなく、また、人が「安心・安全」と言うときは安心でも安全でもない証拠であるみたいなところがあります。その目でこの聖書の箇所を読みますと、「言葉や口先だけではなく」ということを言う人は、まさに言葉と口先だけの人であるらしいことが見えて来ます。この「ヨハネの手紙一」を読んだときに感じる、なんとも言えない「嫌な感じ」というのは、ここから来ることがだんだん見えてきます。「教えたがり」の牧師たちが、この手紙を好んで引用する理由もなんとなくわかるわけです。この手紙の著者そのものが、言葉と口先だけの「教えたがり」なのです。

この2箇所の間に、以下の有名な言葉があります。「愛さない者は神を知りません。神は愛だからです」(同4章8節)。有名な「神は愛なり」という言葉の出典だと思われますが、つまり「愛さない者は神を知りません」という人を切って捨てるような言葉の根拠として「神は愛だからです」と言っているのです。これは「言葉と口先だけ」の言葉だったのです。イエスさまは決してこのようなことはおっしゃいませんでしたねえ!

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