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ドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」

 (これは私がときどき書くクラシック音楽ネタです。今回はかなり有名な曲を話題に出します。なるべく新鮮な話題を提供できるように努力いたしますので、よろしければお読みくださいね。)

 ドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」(以下「新世界」と略します)は、かなり有名な曲だと思います。ふだんクラシック音楽をお聴きにならないかたも、第2楽章のテーマ(「家路」と呼ばれています。日本語歌詞は「遠き山に日は落ちて」で始まります)などをお聴きになれば「これ知っている」とおっしゃるのではないでしょうか。

 さて、私が最初にこの曲にハマったのは、高校時代でした。そのころ、この曲のスコア(総譜)を入手し、なめるように読んだ記憶があります。いろいろな音源を聴いて(なにを聴いていたのでしょうね。たしか家には、ケンペ指揮のCDと、カラヤン指揮のカセットテープなどがあったはずです)、あちこちの音の違いに気が付いたりしました。私には絶対音感があるのみならず、世の中で流れている音楽のほとんどは耳だけで聴きとれている、という特技がございます。それが発揮されて、スコアの音と音源の音の違いに敏感に気づいた、というわけです。

 さて、私はこの曲をやったことはありません。演奏したこともなく、指揮したこともありません。2回だけ「出会った」ことがあります。1回は大学オケの「小学校まわり」で、第4楽章を演奏したとき(降り番でした。降り番とは、出番ではなかったという意味です)、もう1回は、教員だったとき、顧問をしていたオーケストラ部が、全楽章を取り上げたときです。これも、ライブラリアン(楽譜の管理をする者)をやらされましたが、乗ってはいません。

 このうち、「大学オケの小学校まわり」にかんする思い出を書きますね。少しの脱線はおゆるしください。私の大学は東大でありまして、大学オケは東大オケです。東大オケは、指揮者とハープを除いて、すべて東大生から構成されていました。いま思えば「東大ブランド」を振りかざしているのでしょうが、よく、いろいろな小学校をまわって演奏しました。地方公演のときも、よく小学校をまわりました。どうやら、東大に入った「優秀な」学生が、出身小学校に「凱旋」するのですね。「卒業生が東大に入って、東大オケに入り、そのオーケストラがうちの小学校に来てくれて、演奏してくれる」という小学校側のニーズはけっこうあるということです。ちょっとバカにした書き方をしてしまいましたが、これはなかなか楽しい行事でした。のちに私は中高の教員になりました。年に1度、「芸術鑑賞」という行事があります。よく「クラシック音楽鑑賞、オーケストラ鑑賞」などが案として挙がっては消えていきました。その学校の教員たちは、「クラシック音楽なんて、たいくつすぎて、生徒はみんな寝る」と考えているようでした。私は発言権がなかったので何も言えませんでしたが、必ずしもそうではないことを知っていました。私が経験した東大オケの「小学校まわり」では、小学生のみなさんは、とても集中して聴いてくれていたのです。やはり、自分たちの小学校の体育館に、ところせましと100人ちかいお兄さん、お姉さんが大小の楽器を持って集まり、生のオーケストラの音をド迫力で聴いたら、みんな集中して聴いてくれるものなのです。東大オケの「小学校まわり」には、そんな思い出があります。かなり話が脱線しましたが、「新世界」の話でした。ある年の小学校まわりで「新世界」の第4楽章をやり、私は降り番だった、という話でした。

 もう1回、教員だった時代に、顧問をしていたオーケストラ部が、「新世界」全楽章を取り上げた話を書きました。これは、あまり賢いとは言えないコーチの選曲です。「新世界」を選曲するにあたっては、いくつかの編成上の問題があるのです。大きいのは「テューバ問題」と「コーラングレ問題」です。少しずつ書いて参りますね。

 「新世界」のテューバ問題とは、テューバの出番が、極端に少ないことです。第2楽章にしか出番はなく、しかも数えるほどしか音符がありません。プロのオケでどうなっているか知りませんが、少なくともわれわれアマチュア・オーケストラにとってこれは大問題です。テューバの人、たったこれしか出番がないのに、みんなと同じ団費を払わされたらかなわない!しかもこれだけ出番が少ないということは、練習中も、ひたすら出番が少ないことをも意味します。よくある解決法は、本番だけエキストラに頼むことですが…。この点、ドヴォルザークの第8番(テューバ大活躍)や第7番(テューバなし。ないならないでいさぎよい。テューバの団員のいない団なら、かえって好都合です)のほうが、アマオケが取り上げる頻度は高くなるわけです。私も第7番や第8番ならやったことがありますしね。さて、これが「新世界」のテューバ問題です。出番が極端に少ないという問題です。

 つぎに、「コーラングレ問題」があります。「コーラングレ」と「イングリッシュホルン」は同じ楽器で、オーボエの持ち替え楽器です。ここでは「コーラングレ」と呼びますね。第2楽章の、例の「家路」のテーマを堂々と吹くという役割を担います。これも、へたをすると「エキストラ」になってしまうのです。私の楽器はフルートで、マイ・ピッコロを持っています(ピッコロはフルートの持ち替え楽器です)。しかし、日本のアマチュアのフルート人口の多さを考えると、少なくとも日本のアマチュアのフルート吹きのなかで、マイ・ピッコロを持っている人って、1%もいない気がします。同じように、なかなか「マイ・コーラングレ」を持っているアマチュアのオーボエの人は多くはないのではないかと思います。みなさん、よくコーラングレは、持っている人に借りたり、団所有の楽器を使ったりしているようです。ですから、これもエキストラになりやすいです。しかし、これはほとんど「新世界の主役」です!新世界のコーラングレをエキストラに任せるのは、あたかも「浦島太郎の劇をやるにあたって、浦島太郎の役がエキストラ」という状態であるかのようです。われわれのオケも(コーチがあまり賢い人ではなかったので)、そうなりました。ある女子大のオケが「新世界」をやったとき、私の友人がコーラングレでエキストラで吹くのを聴きに行ったことがあります。彼は「こんなにおいしいものをエキストラに吹かせていいのかなあ」と言いながら、乗っていました。ちなみにその本番を聴いた隣の席のご婦人から、終演後に「あのテューバの人は、なにしに座っていたの?」と聞かれたことがあります。それくらい、新世界のテューバは、休みばかりで、よく観察していないと、ひたすら40分間、「座っているだけ」に見えるのです。これが、たとえばドボ8(ドヴォルザークの交響曲第8番の略称です。以下、このような略称を断りなく用いさせていただきます)のコーラングレならば、一瞬ですので、クラリネットで代用してもわからないだろうと思います(オーケストラをやっているみなさん、ドボ8のコーラングレがどこに出てくるか、いま、とっさにわかりますか?笑)。しかし、新世界のコーラングレはそういうわけにいきませんからねえ。また少し脱線を書きますと、新世界のコーラングレは、通常は2番オーボエが持ち替えで吹きます。たしかに、スコアを見る限り、新世界で、オーボエとコーラングレが同時に吹く場面はなく、持ち替えできます。あるプロのオーケストラのオーボエ首席の先生からお聞きしましたが、「新世界で、2番の人は、(だいじなソロの出番なので)第1楽章の最後のほうからコーラングレで吹いているよ。ときどき、スケール(音階)をさらっているよ」とのことでした。しかし、私がライブラリアンをやったときのパート譜は、オーボエ2本のパート譜とは独立して、コーラングレのパート譜がありました。その、女子大のエキストラで乗った彼も、コーラングレのパートだけ吹きました。私が高校時代に読んでいたスコアは、2番オーボエの持ち替えでした。果たして、本来、ドヴォルザークはどちらで書いたのでしょうね。脱線はこのへんまでです。それほど脱線でもありませんでしたね。とにかく、新世界を選曲するにあたって、「テューバ問題」と「コーラングレ問題」はクリアせねばなりません。そして、私がライブラリアンをやらされたときのコーチは、弦楽器のことしかわからない人で、あまり賢い人ではなかったので、安直に新世界を選曲してしまったのでした(それに口を出せるような発言権は私にはありませんでした)。ちなみに、東大オケが新世界の第4楽章だけを取り上げたときは、これらの問題は生じないわけです。テューバ問題もコーラングレ問題も、第2楽章の問題ですから…。

 つぎに、ピッコロの話をします。新世界は、ピッコロも一瞬の出番なのです。2番フルートの持ち替えです。(オーケストラをやっている皆さんへ。新世界のピッコロが出てくる箇所は、いま、とっさにわかりますか?笑)ちなみにドボ8のピッコロも一瞬ですね(オーケストラをやっている皆さんへ。ドボ8のピッコロの出てくるところはどこだか、とっさにわかりますか?笑)。私、ドボ8の2番フルートのピッコロ持ち替えはやったことありますね。ドボ7のピッコロの出番も少ないし、ドヴォルザークのチェロ協奏曲のピッコロの出番も少ないですね。これはドヴォルザークの特徴なのでしょう。(これに限らず、新世界のテューバ、ドボ8のコーラングレ、後述する新世界のシンバルなど、「ある楽器をちょっとだけ使う」のは、ドヴォルザークの特徴かもしれません。)ここでまた少し脱線ですが、アメリカのオーケストラでは、いわゆる「特殊楽器」(「特殊な楽器」という意味ではありません。「特殊楽器」でひとつの術語で、フルートにとってのピッコロ、オーボエにとってのコーラングレなどを指します)が、持ち替え楽器ではなく、それ専門の演奏家がいて、分業しているというのです。アメリカは広いですから「アメリカひとくくり」にはできないであろうことも承知していますが、たとえばフィラデルフィア管弦楽団には、時任和夫さんというピッコロ専門のかたがおられ、また、以前、テレビで見た小澤征爾指揮ボストン交響楽団の「新世界」でも、フルート属の人は3人が乗ってきて、3人目はピッコロだけを持って登場し、その人はほんとうにそのピッコロソロしか吹かなかったのです。この意味で、少なくともフィラデルフィア管弦楽団とボストン交響楽団は、「フルートとピッコロは分業している」ことは言えると思います。これが「オーボエとコーラングレ」とか「クラリネットとバスクラリネット」とか「ファゴットとコントラファゴット」もそうなのかどうかは私にはわかりません。自分の楽器ばかり注目していてすみません。この場合、ほんとうにピッコロ専門の人の出番は一瞬になります。いずれにせよ、私は日本におり、しかもアマチュアですから、あまり関係のない話ではあります。脱線おしまいです。

 つぎに、シンバルに関する話をします。これは以上の話よりずっと有名な話ですが、間違った情報が世に出回っているらしいことも、最近(半年くらい前)、知りました。新世界に出てくるシンバルは1回だけです。これを、タモリの番組であった「トリビアの泉」という番組(古い番組なので、若い方はご存知ないかもしれませんね。でも、「トリビア」という言葉は生き残っていますね)で、「新世界のシンバルは、出番は1発!それなのに、ずっと弾いている弦楽器と同じギャラ!」というネタが披露されたそうなのです。このことは、あるクラシック音楽マニアのかたから教わりました。しかし、すぐに私は思いました。たしかに新世界のシンバルは、第4楽章に1回しか出て来ない。しかし、第3楽章に、けっこうトライアングルが出てくる。新世界のシンバルは、トライアングルと掛け持ちのはず、ということでした。これは、そのマニアさんも、納得せざるを得ないようでした。つまり、タモリの番組が「ウソ」を広めてしまったのです。新世界の「ティンパニ以外の打楽器担当」はひとりであり、その人は、第4楽章の1発シンバルだけでなく、第3楽章のトライアングルも担当します。(もっとも世界は広く、さっきのアメリカのフルートとピッコロの分業の話もあるくらいですから、世界には、シンバルとトライアングルを分業する文化もあるのかもしれませんが、少なくとも私はそんな文化は知りません。)このように、「トリビアの泉」みたいな番組でも、話をおもしろくするために、「ウソ」を言っていることがあります。多くの人はだまされてしまうのです。もうひとつ、このネタのあやしいところを言いますと、「シンバルと弦楽器でギャラは同じ」と言っているところです。私は「お金を払って演奏する」アマチュア・オーケストラの経験しかありませんので、プロのことはわかりません。しかし、プロの世界のギャラのことは知りません。みんな同じギャラ?コンマスや首席奏者は高いのではないの?それとも年功序列の給料なのですか?そういうことも考えますと、この「ギャラが同じ」というネタも、非常にあやしい、ということになります。とにかくテレビの言うこともアテにならない、という恰好の例になっています。私も、自分の詳しくない分野の話をテレビ等で聞くとき、注意せねば!(ブルックナーの7番のシンバルはほんとうに1発です。トライアングルもシンバルと同時に鳴るため、トライアングルもそこだけの出番です。「トリビアの泉」も、ブルックナーの7番でこのネタを出せば間違いではなかったのですが、「新世界」と「ブル7」では、知名度がだいぶ違うでしょうからね…。ブル7では番組が成立しないのでしょう。)

 編成の話が長く続きました。そのライブラリアンをさせられたときのコーチの賢くなさがいまだに腹の立つことなので、少し書かせていただきました。

 あるときのことです。学部生のときだったと思いますので、もう四半世紀くらい前のことになります。あることに気づきました。この「新世界」という曲の第2楽章は、特徴的なコラールで始まります。その出だしのトランペットの主旋律(?)は(実音で)「ミーファー、ミーファー、ミーファ♯ー」というふうに吹きます。一方で、第4楽章の出だしは、これも非常に印象的ですが、「シード、シード、シード、シード、シド、シド♯・・・」というふうに続きます。これは密接な関係があるのではないか?このことを指摘している人や文章に出会ったことはありません。しかし、これ、明らかに関連があるのではないですか?さきの小澤征爾の番組でも、小澤征爾は、この新世界の第4楽章の出だしのふしぎさについて、語っていましたが、小澤征爾も気づいていないね?これに気づいている人がどれくらいいるのか知りませんが、少なくとも、あまり知られた話でないことは確かだろうと思います。少なくとも私は、私以外で、このことを指摘している人や文章に出会ったことはありません。

 また少し違う話をします。この「家路」と言われるメロディは、讃美歌になっているらしいのです。あるとき、ある高齢のご婦人が、この讃美歌がお好きだと言われ、私はそのときの祈祷会で、このメロディを前奏に弾きました(私は耳にした音楽はすべて楽譜に書き起こせるという特技がありますので、オルガンを弾く腕はあまりありませんが、この曲をどうにか弾くくらいはすぐにできます)。それにしても、私はこのメロディが讃美歌になっているという話は聞いたことがありません。そういう楽譜も見たことがないと思います。少なくとも「讃美歌1編」「讃美歌2編」「讃美歌3編」「讃美歌21」には存在しないと思います。しかし、そのご婦人がおっしゃったということ、また、「だいたい有名なメロディはことごとく讃美歌になっている傾向にある」ということからしても、これが讃美歌になっていても不思議ではありません。

 最後に、演奏の話をします。私が「新世界」の演奏のなかで最も好きなのは、ストコフスキー指揮、全米青年交響楽団による演奏です。ストコフスキーは「新世界」が得意で、この曲を世界発録音したのもストコフスキーだと聞いていますが、その、たくさんあるストコフスキーの「新世界」のなかで、最もいい演奏だと思っているのが、この「全米青年交響楽団」による1940年の録音なのです。ところで、ストコフスキーは「新世界」は得意な曲でしたが、ドヴォルザークの他の交響曲は、レパートリーではありませんでした。8番も7番も、「録音しなかった、ライヴ録音も残らなかった」というレヴェルではなく、「そもそも生涯で一度も取り上げなかったのではないか」というほど、やっていません。ストコフスキーが録音を残した新世界以外のドヴォルザーク作品は、最晩年の「スラヴ舞曲第10番」と「弦楽セレナード」だけではないかと思います(しかしいずれも名演奏で、録音が残ってよかったです)。それから、近衛秀麿指揮、読売日本交響楽団による演奏がよいです。あちこちに近衛のこだわりが聴けて、充実しています。さらに、聴いたことはないものの、耳から手が出るほど聴きたいのが、外山雄三指揮による演奏です。たまーにネットで評判を見ますが、外山雄三の新世界は、どうやらかなり個性的であるようで、いつも賛否両論になっています。外山雄三マニアでもある私としては、どうしても聴いてみたいのですが、残念ながら生で聴く機会にも恵まれず、録音が世に出る気配もありません。聴いてみたい!

 最後の最後にYouTubeをはりますね。ストコフスキーの最晩年のライヴです。残念ながらストコフスキーの絶好調のときの演奏とは言えませんが、ストコフスキーがどのように新世界を表現したかったのかはじゅうぶんにわかる演奏になっております。使用楽譜についても、こだわりを感じさせられます。律儀にお聴きになる必要はございませんよ。はってみただけです。スルーなさってくださいね。


 本日は、長い記事でしたね。ドヴォルザークの新世界にかんする、私の思いを書きました。ここまでお読みくださり、ありがとうございました。

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