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嫌なものは嫌と言える気持ち抱きしめたい

小学生のころの話です。将棋のルールを覚えた私は、同居していた父方の祖父に、勝負を挑みました。当然というか、負けました。私はメソメソ泣いたらしいです。祖父は、家族のみんなに「腹ぺこが将棋の勝負を挑んできたのだ。私が勝ったのだ。腹ぺこは、メソメソメソ~と泣いたのだ。だからもう原ぺことは将棋をやらないのだ」と言いました。毎日のように、これでもかと言われました。毎日「腹ぺこはメソメソメソ~と泣いたのだ。だから腹ぺことはもう将棋をやらないのだ」と言われました。私は恥ずかしすぎて、何も言えませんでした。47歳になるいま、ようやく「将棋を覚えたての小学生が得意になり、祖父に勝負を挑んで負けてメソメソする」のは普通のことであって恥じることではないと認識できてきた次第です。私はかなり長いこと「すべて自分が悪い」というふうに思って育ってきてしまいました。私の祖父は、「さすが私の父を育てた人だ」という人でありました。みんな腹ぺこ家に長く伝わる「情けのなさ」というカルト宗教の忠実な信徒なのでした。

いや私は「恥ずかしい」とさえ認識していなかったというのが正直なところでしょう。本当に困っている人は自分が困っているという認識はないですし、苦しい人は自分が苦しいことに気づいていませんし、しんどい人は「しんどい」と言語化していません。玉木幸則さんは「しんどいときはしんどいといってええんや」と言いますし、奥田知志さんは「困ったら助けてと言いましょう」と言いますが、本当に困っている人は「困っている、しんどい」というのを自覚していないのです。

私の30代くらいの(2011年前後の)日記を見てみますと、そこには、すべてを自分のせいにする自分の姿があります。仕事でできないのも、家庭でできないのも、すべて自分のせい。ひたすら反省の言葉がつづられています。読むのも痛々しい日記です。本当に苦しい人は、自分が苦しいという自覚がないのです。これは恐ろしいことです。

私の算数の生徒さんで「自分の得意なことは得意なのだ。決めつけないで」とおっしゃった小学生のかたがおられます。そのかたは、大人になると得意、不得意というのは、他者との比較で決まることをよくご存じなのでしょう。得意なことは得意だと言い、好きなものは好きと言い、嫌なことは嫌だと言い、怖いことは怖いと言える、それは愛情のある親に育てられた人の特徴なのかもしれません。

イエスは処刑される前の晩、ゲツセマネで「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯を私から取りのけてください」(マルコ14章36節)と言いました。これは「怖いものは怖い」と言っています。イエスは弱音を吐いたのです。聖書にはイエスに頼る人がたくさん出て来ます。そしてイエスもまた神に頼ったのです。頼ろうとしたのです。それは聞かれることがなく、イエスは処刑されてしまうわけですが…。

困ったときは助けてくださいと言い、嫌なものからは逃げ、不公平な目にあったらぐちを言い、怖いときは弱音を吐く。それは愛情ある親に育てられた人の特徴なのかもしれません。私の洗脳はいつ解かれるのか。せめて完全に洗脳が解けてから死にたいです。「すべて自分のせい」という洗脳は恐ろしい!

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