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きたならしい気持ちを書いたものを読むと心が洗われる

 私は、1996年の夏ごろ(20歳のとき)より、日記をつけています。毎日、欠かさずつけています。ですから25年以上、日記をつけています。ある仲間から「10年以上、日記をつけている人は、すでに何事かをなしとげた人である」という誰かの言葉を聞いたことがあります。私は25年以上、人生の半分以上、日記をつけていますが、何もなしとげていないばかりか、これからますます人生で困ることになります。

 私がつけているものは正確には「日記」ではありません。「何でも帳」と言います。いまので大学ノートに90冊目になります。この「何でも帳」というのは、大学のときのオーケストラの部室に存在したノートで、文字通り、何でも書いていいのです。結果的に「日記」になっていますが、正確には日記ではなく「何でも帳」です。(ちなみに、同じオーケストラに在籍した後輩で、やはりうつ病もちで、出世街道を脱落している仲間が、「何でも帳」をつけているようでした。考えることは似ているようです。)

 「何でも帳」ですから、「何でも」書いてあります。その日、起こったことのみならず、その日、思ったこと、感じたこと、何でも書いてあります。きたならしい思いや、罪な思い、恥ずかしいこと、何でも書いてあります。そんなものを後から読み返したら、さぞや不愉快で恥ずかしい思いになるかと思うのですが、そんなことはないのです。たとえば、私はきのう、2006年(15年前)の日記(いや何でも帳)を読み返しました。そこには、就職したばかりで毎日が大失敗の連続、いま読んでも冷や汗が出そうなことばかり書いてありますが、それでも日々、成長しようとして必死に努力する「けなげ」な自分の姿が見えてきます。それでもいっさい成長しなかった私は「人は変わらない」という「重い」言葉に到達するわけですが、とにかく15年前の私は「けなげ」としか言いようがありません。つまり、「きたならしい気持ちを書いたものを読むと心が洗われる」としか言いようがないのです。「自分の気持ちに正直に書いておいて、よかった」と思うばかりです。

 そんなわけで、私の日記は「エンドレスなヨブ記」といった感じで、いつまでたっても「最後に神様が出てきてハッピーエンド」になりませんが、私はこれからも「日記依存」を続けていくだろうと思います。(※「ヨブ記」というのは旧約聖書に載っている書のひとつで、「義人」ヨブが、「理不尽にも」罰を受けて、ひたすら神をのろう話です。ラストで神様が出てきてハッピーエンドになりますが、この終わり方には賛否両論あるみたいです。もっとも私は「義人」じゃないですけどね。)「意志が強くて続けている」のではなく「日記依存がやめられない」といった感じです。ちなみに「それ読んでみたい」と思う人がいても、残念でした。私の字は猛烈にきたなく、私以外の人では判読不能です!


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