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罪びとは罪びとのままじゃだめなのですか

 よく教会で聞く言い回しで「神の一方的な恵み」というフレーズがあります。われわれがいい子にしていたから神様が救ってくれるわけではない。われわれは悪い子であるにもかかわらず、神様の圧倒的な愛と恵みで、救ってもらえるのです。ありがたや!というときに使われるフレーズです。「神の一方的な恵み」。でも、この言葉が、ときに「恩を売られている」ように響くことがあります。きみたちは悪い子なのに、神様の一方的な恵みで救ってもらえるのだよ。どうだ、感謝しなさい。というニュアンスですね。しかし、「神の一方的な恵み」って、そういう意味なのでしょうか。

 「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(新約聖書マルコによる福音書2章17節)。有名なイエスの言葉ですが、これも「神の一方的な恵み」を言っていると考えられます。イエスが来たのは罪びとを招くためなのですから。しかし、この言葉の最後を少し変えてある福音書があります。以下のようです。「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」(ルカによる福音書5章32節)。「悔い改めさせるためである」!こう来られるとだいぶ「恩を着せられている」感じになります。イエスが本当はどっちを言ったのか知りませんが、私は前者のほうがいいなあ。罪びとは罪びとのままじゃだめなのですか?

 「にらめっこの必勝法」というのがあります。「いかに自分がダメな人間か思い出す」ことです。とうてい笑えなくなります。だいぶ前ですが、これを、にらめっこをしている中学生たちに教えたことがあります。みんな急に神妙な顔になり「そういえばオレ、このあいだも…」ということになりました。みんな「罪びと以外のものにはなれない」のです。(私のいま書いているこの記事だって、どこで誰を傷つけているかわかりませんし。)全員が罪びとである以上、神様は「罪びとであるにもかかわらず」救ってくれるわけではないのです。むしろ「罪びとだからこそ救ってくれる」というべきでしょう。救いようのない罪びとだからこそ救ってもらえるのです。「神の一方的な恵み」って、本来、こういう意味ではないですか?私たちは、立派な行いをして立派に救われていくわけではないのです。ただ神の恵みによって救われるのです。

 そのことを言いたくて「神の一方的な恵み」と言うのでしょうが、しばしばこの言いかたは、「恩を売られている」ように聞こえます。感謝を強要されているようです。その根本には、「悪い子『なのに』救ってもらえる」という意識があります。真実は「悪い子『だから』救ってもらえる」です。私たちは小さいころから「いいことをすればほめられ、悪いことをすれば叱られ」てきました。でももう充分ではないでしょうか。神様はそうではないです。罪びとは罪びとのままでいいのです。開き直っているわけではなく、私たちは罪びと以外のものにはなれないからです。

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