見出し画像

読書百遍意自ずから通ず?

 「聖書通読」という言葉があります。あのぶ厚い聖書を通して読むことです。(繰り返し書いてすみませんが)私には17回の聖書通読の経験があります。新約聖書だけなら33回の通読の経験があります。私よりたくさん読んでいる人に出会ったことはないのですが、「聖書って必ずしもたくさん読めばいいというものではないのではないか」と思うことがありますので、きょうはそれについて書きたいと思います。

 私並みに聖書をたくさん読んでおられるかたを2人、存じ上げております。仮にAさんとBさんとしましょう。Aさんは、11回の通読の経験がおありです。しかし、最近、聖書を読むのをやめてしまわれたそうです。理由を聞きますと、聖書ってあっちとこっちで矛盾することを言っていること、残酷な話も多いこと、それから、男尊女卑の思想が見られること、などでした。私がちょっと驚いたのは、それに気が付くのに、11回も読まなければならなかったのだろうか、という点です。これは個人差がありますからなんとも言えませんが、それは11回も読まなくてもわかることではないだろうか…と考え込んでしまいました。

 Bさんは、ここ2、3年で聖書を読むようになったかたで、いま猛烈な勢いで読んでおられ、私の回数を抜くペースで聖書を通読しておられます。しかし、どうもその人は(その人も?)聖書は頭に入っていないらしいです。たとえばその人はとても時間のあるかたなので、使徒言行録(使徒の働き)をまる一日で読んでしまうペースなのです。それはいくらなんでも消化不良を起こすでしょうと感じるわけですが、その人は、どうしても時間があるので、どれだけゆっくり読んでもそのペースになるとおっしゃいます。Bさんは2回も(2回は多いです)旧約聖書を読んでおられますが、たとえばソロモンの母の名前を私が聞くと、答えられませんでした。おそらく、あの長い旧約聖書を読んでいて「たった2回」しか読んでいないと、いったいどこが有名な話なのかもつかめないことでしょう。私の知っている「たくさん聖書を通読している人」がことごとくそんな感じなので、考えさせられます。

 私の尊敬するある牧師さん(C牧師とします)は、とても深く聖書を読んでおいでです。聖書の言葉を、ご自分の経験を踏まえて、からだで読んでおられる感じです。しかし、C牧師の話を聞いていて、「この人は旧約聖書の概要をよく知らないのではないか」と思った経験があります。「聖書をからだで読んでいる」ということと、「聖書を知識としてよく知っている」ことは、違うのではないか、と思わされる象徴的な牧師さんです。

 「読書百遍意自ずから通ず」と言います。あるいは「論語読みの論語知らず」とも言います。どうも、「聖書通読の回数」というものは、あまり意味がないものかもしれない、と思ったりもします。私も、何回も読んでいるうちにわかってきたことはたくさんありますので、まったく意味がないとは思いませんが、AさんやBさん、またC牧師を見るにつけ、思うようになったことです。「聖書通読」に価値を見いだすおもにプロテスタントのクリスチャンは意外と多いようですが、私が現在、思っていることは、このようなことでした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?