「サマリア人」はよい人?

 新約聖書にときどき「サマリア人」というものが出て来ます。ほとんど、「よい」文脈です。「よいサマリア人のたとえ」にせよ、井戸で話していた女性にせよ、十人の規定の病の人のなかで感謝しに帰ってきた人にせよ。しかし、サマリア人というのは、聖書のなかでは「よくない」ものとして出て来るのです。うっかりするとこれは読み間違うところです。同様に、「律法学者」というものは、逆に、「立派なもの」として出て来るのですが、これも「悪いもの」と錯覚しがちです。ここで、「よいサマリア人のたとえ」について概略を書きたいと思います。イエスのたとえ話です。ある人が追いはぎにあって半殺しの目にあい倒れていました。祭司が通りかかりましたが道の反対側を通って行きました。レビ人が通りかかりましたが道の反対側を通って行きました。3人目としてサマリア人が通りかかりましたが、彼は気の毒に思って介抱しました。だれがその人の隣人になったでしょうか、という話です。これを見ると、サマリア人って親切である気がしてきます。しかし、これは現代で言えば以下のような状況です。ある人が半殺しの目にあって倒れていました。牧師が通りかかりましたが道の反対側を通って行きました。クリスチャンが通りかかりましたが道の反対側を通って行きました。3人目として〇〇の人(「〇〇」には、あなたの最も苦手な宗教の名前を入れてください)が通りかかりましたが、彼は気の毒に思って介抱しました。だれがその隣人になったでしょうか、とイエスは問うているのです。サマリア人とは、当時、ユダヤ人から嫌われる宗教の人であったので、このたとえ話には、それくらいのインパクトがあったはずです。

 同様の現象ですが、「ファリサイ派の人(パリサイ人)」というのが出て来ます。「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたがた偽善者に災いあれ」とイエスはマタイによる福音書23章で何度も言います。「パリサイ」を英語ではphariseeと言い、なんと「偽善者」という意味がある言葉なのです!つまり「偽善者よ、あなたがた偽善者に災いあれ」という意味になってしまって同語反復となります。これも、もとの意味から逸れてしまって、「ファリサイ派」という言葉に悪い意味がついてしまったわけです。もともとは新約聖書当時のユダヤ教の一派を指す言葉なのですが…。他の言語でどうなっているのか、私は知りませんが、少なくとも、英語で聖書を読む人にはこれはワナだろうなあと思います。

 もともと、聖書に書いてあることは、そのような律法主義への精一杯の脱却の意味があったわけです。しかし、その聖書そのものが律法主義になると、そのような聖書のメッセージから聖書そのものによってわれわれが遠ざけられるという根本的な矛盾におちいるわけです。聖書を読んでもらうさいに最初に「聖書はすべて神の霊感を受けて書かれたもので、人を教え、戒め、矯正し、義に基づいて訓練するために有益です」(新約聖書テモテの手紙二3章16節)というところから読ませる人もいます。これ、聖書による聖書の自己言及に思えますが、そもそもこの言葉が書かれたとき、このテモテへの手紙二は、聖書ではなかったですからね!

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