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Twitterで中途半端な内容を断言してドヤる人たち

「事実と意見を分けろ。書いていることの何が事実で何が意見かちゃんと分かるように書け」

大学で論文を書くとき、または高校、中学の現代文、国語で論説を書く課題が出たときに言われなかっただろうか。

確かに大事なことである。しかし大事と分かっていてもなお騙されそうになる。

Twitter特有の「閉じた文章」に。

140字以内で全てを書ききらなきゃいけないと思うからなのか、Twitterでは「閉じているな」と思う文章が多い。言い切ってしまっていて、反論や疑問を許さない文章。「これは事実ですから!」という文章。140字で起承転結が収まってしまっていて、良くも悪くも「いいね」かリツイートをするしか無い文章。

以上書いたような文章がTwitterには溢れている。そして私は時折「この文章に書いてあることは事実で正しいのだ」と騙されそうになる。しかし気持ちの上で違和感や嫌悪感があるから、ギリギリのところで騙されずに済む。

違和感や嫌悪感というのはどうも、いかにも論理的で鉄壁なように見える文章ほど、誰かを拒絶したいオーラというか、感情の表出をしているように感じてしまい、悪い共鳴を起こしているのかもしれない。

そして大概Twitterの閉じた文章というのはじっくり一文一文を読んでみると、事実と意見がごっちゃになっていたり、推測が事実と混ざっている疑いが濃厚だったり、そもそも事実か怪しかったりする。サラッと論理の飛躍があったりして、騙されそうになる一要因だったりする。

しかしネットの書き込みなんて昔からそうだった。あること無いことをさも事実であるかのように断定口調するから誹謗中傷になる訳だし、YouTubeのライブ動画に付くいい加減なコメントも大概断定だった。Twitterはなんだかんだデザインが優れており、一つ一つのアカウントに個性を持たせやすいのもあって、いい加減な断定を立派な意見に見せるのがやりやすいのだ。

それでも私がTwitterを続けるのは、「嫌々やっている教養ある人の面白い書き込み」を見たいからなのだ。後は「当たり前のことを苦し紛れに言い続けなければいけない人」の意見は見たくなくても見てしまう。言う必要があるから言っているので、私も応援しているしできる時に協力したい。だけどいつか、そういう人が必要なくなる日を願っている。

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