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書評『感染症の日本史』磯田 道史

実学としての歴史。今の時代、それを追求している一番有名な人が、磯田さんであることは間違い無いだろう。

コロナウイルスのワクチンが開発される前の本であるのだが、今読んでもさほどその価値は落ちないと思われる。愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ、とは言いますが、自分の生きていない昔も含めた人類の経験を、歴史書から学ぶということは有益だということです。まあ、たかだか人の人生など100年も無いわけで、数世紀に一度の疫病というのを人生の経験で知っている人などあまりいないわけです。

疫病の時代にあれば、全ての人が学ぶのであるから、この姿勢は正しいのである。しかしながら、じゃあ、感染症の歴史を調べたことがある人がどれだけいるのか、英語の書物を読むように、江戸時代の文面をスラスラ読める人がどれだけいるのかというといないので、歴史オタクの磯田さんの出番なのである。

戦国時代も江戸時代も疫病はあった

まあ、磯田さんが色々まとめてくれているけれども、昔も今も疫病なんてものは変わりません。古くは豊臣秀吉が朝鮮出兵するときに梅毒が流行ってさあ大変、とか、ペリーがコレラを持ってきたとか。緒方洪庵が蘭学を学んで、医者を鼓舞して、医者が前線に立つなど、まさに、コロナウイルスとやっていることが変わりません。

江戸時代の疫病は外国からやってくるのですが、当時は鎖国で長崎から西にやってくる。だから、疫病が外国からもたらされるというのは江戸時代にも普通にあった概念だそうだ。

宿は閉まって、みかんの価格が上がり。あんまり今と変わりがない。おまけに給付金まであった。

天然痘が非常に流行っていて、十五人いる徳川将軍のうち、十四人がかかっている。ゾーニングをちゃんとやっていて、殿に天然痘をうつさないように、隔離と出勤の遠慮が行われていたというから、日本の自粛文化の歴史は長い。

岩国藩の殿様は隔離政策がしっかりしていて天然痘に罹らなかった。天然痘の患者が農村に出ると、別の場所に隔離した上で、食料などの給付を行なっていたという。看護する人までセットで遠くに隔離して、生活と食料を保証したそうです。まあ、今でも素晴らしい。

大村藩(長崎)は、隔離はしたけど、給付はせず。山中に患者を放置して死ぬのを待ったという残酷な政策。食料は、患者本人の自己負担。家族が天然痘にかかると破産してしまったそうです。こちらは、感染予防効果もなく。

上杉の殿様は、出勤の自粛をやめていいよと言って、感染が蔓延するのを許容して、藩の経済を回すことを優先したとのこと。医者の直接支援も領民に行なっていて、いい殿様は、いつの時代もいい殿様です。

スペイン風邪は第三波まで

磯田さんのお師匠様は、速水融(はやみあきら)さんなのだが、この著名な人口歴史学者の最後の方に研究していたのが大正のスペイン風邪の歴史である。これをコロナの前に書き上げるなど、まさに神である。

スペイン風邪は第三波ままできていて、3年ぐらい回復にかかっている。重症のものも、軽症のものもあった。これが、新聞をはじめ、さまざまな文学作品などにも歴史が残っていて、これを解析している。

早見先生が新聞を転載しているが、こんな感じである。

<入院は皆お断り 医者も看護婦も総倒れ 赤十字病院は眼科全滅>(『東京朝日新聞』1919年2月3日付)

そのあとは、患者史をたどります。一般の家庭の女の子の日記を通じて、遠くに住むおじいちゃんが京都でスペイン風邪を拾って死んでしまった話、とか。

志賀直哉が気をつけつつ暮らしていたが、女中さんが遊びに行って風邪をもらってきて危うくクビにしようとしたが思いとどまった。おさまってきたときに本人も風邪をもらってしまった。このときに看病してくれたのが、この迂闊にかかっていた女中さんで、この人は免疫があったから大活躍して、この人を責めた自分を反省する志賀直哉、などが書かれている。

原敬のインフルエンザの話も書かれている。山縣有朋がインフルにかかって死にそうになってどうするよ、とか、総理大臣は色々人に会うからインフルにかかってしまう様子とか、生々しい。天皇陛下に会うことができないので、政治が滞るとか、まあ、この時代はリモートがないですからね。

磯田さんの速水融さんに対する思い出話

私は、磯田さんを歴史随筆家だと思っている。

磯田随筆の中でも面白いのが本後半のこの章である。磯田さんは、歴史が好きで、古い石を見つけては拓本を取って古い文字を読んでいたような男の子だったそうだが、その磯田さんが京都府立大学への進学が決まっていたときに、岡山大学の図書室を見学させてもらっていた。専門とする歴史の時代を決めようと訪れた図書館で、歴史の本を開いたら、速水さんの本で、そこには、人口のグラフが乗っていたので、磯田さんはたまげてしまう。歴史は、古い書物を読むのではなくて、こんな世界があるのかと。

というので、京都府立大学にいくものの、どうしても速水先生の授業が受けたいということで、慶應大学の文学部に入るのだが、速水先生は経済学部。三田ではなくて日吉なんですよね。それでいて、速水先生は経済学部長から、その年から京都の国際日本文化研究センター教授に就任してしまった。京都と慶應で行き違いになってしまった速水さんと磯田さん。

普通なら、なんという悲劇。ロミオとジュリエットとなりそうです。が、そこは天下の慶應義塾大学。磯田さんの担当の教授が、磯田さんが速水ファンで速水さんの追っかけであることを知って、支援をしてあげる。実は、その当時まだ速水さんは日吉の研究室にいた。早速、田代先生のところに尋ねてみると、

すぐに田代先生のところに行き、「速水先生に学びたくて慶応に入り直したのですが、お会いできるでしょうか」とうかがうと、「一緒においで」と。扉を開けたら、そこに速水先生がいて、ソファーに座ってコーヒーを啜っておられました。

本書より引用

そこで田代先生に紹介される。磯田さんは速水先生に、1ページが敗れた速水先生の最新の本を磯田さんは売りつけられ、サインをもらう。そして、速水先生の助手になって色々やっていく。

まあ、なんとも人懐こい慶應義塾らしい話だなあという。ちなみに速水先生は照れ隠しの部分と、磯田青年が本当の歴史好きなのかを試すために、自著を安く売りつけた、んでしょうね。解説しておくと。こういう優しさと人を見る目が、大物教授にはあるわけで。

というわけでおすすめです。

というわけで、感染症の本としては「ふーん」でおわるのかもしれませんが、この本はおすすめです。磯田さんの歴史随筆を楽しめると思います。

一つ、文章が入っていまして、気に入ったので、最後に引用しておきます。

「寝覚よき 事こそなさめ 世の人の 良しと悪しとは 言ふに任せてください」

後藤新平

こういう公衆衛生が混乱しているときは、外野の評価など気にせず、自分の良いと思う目覚めの良いことだけをやれという歌だそうで、私もこれを目指して頑張ろうと勇気が湧きました。


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