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寄り道ランナー、秋を味わう

秋の入り口は、夏が終わる。
すっかり秋めいてくると、冬が来てしまう。
夏休み、夏生まれ、夏フェス、裸足にサンダル、解放感、年を重ねても楽しみはだいたい夏に集まっていた。そして、寒いのは苦手、朝夕すっかり冷え込みますねとなると冬が来るのを構えてしまう。
今まで、秋はそんな風に過ぎていくことが多かった。

モンブランかなあ。
でも今日は中秋の名月、お月見だから白玉団子のほうにしようかな?
仕事帰り、夕飯後の甘いものを何にしようか考えながら電車を降りた。
駐輪場に向かう道、ふと空を見上げる。
建物の間から見える月が輝いていた、月がきれいですね、見とれてしまうではないか。
もう少し、この月夜を感じてみたい。そうだな、スイーツじゃなくてランニングだ。仕事が終わった夜なのに誘われるように走り出した。
澄んだ空気、虫の声、昼の音色と違って届く川の音がさらさらと続く。
駅からちょっと離れただけの川沿い、いつものランニングコースも夜はひっそりしている。
お月見するなら歩いたほうが味わえそうだけど、人気の少ない夜をただ歩くのは落ち着かない、涼しい夜を歩くだけではちょっと寒い。
走るスピード、走るリズムが心地よい。
ジャスト2kmのちょびラン、甘いものより走ることを選んだ自分に何とも言えない可笑しさを感じつつ身体は爽快だ。

今度は日曜日。休日にしては早起きで、洗濯機は2回目のぐるぐる中、洗濯ものを干しつつベランダから見上げた空は、なんて爽やかな秋晴れでしょう。洗濯と掃除を放り出してランニングだ、またもや誘われるように走り出した。
久々に音楽も聴きながら走ってみよう。最近は走る時あまり音楽を聴かないのだけど、あまりのいいお天気にぴったりのあの曲を聴いて走り出したくなったのだ。スピッツの「日曜日」、`晴れーた空だ日曜日‘から始まる歌詞にのって、いつもの川沿いコースを走る。スピッツとは人生の半分以上一緒、足取りがいつになく軽快だった。途中、休憩でイヤホンを外す。そのまま走り出したら、ふわぁと景色の静けさに身体が馴染んだような感覚になった。
川沿いに目を向ければススキが揺れている、木々の紅葉が快晴の青空と重なる。舞い落ちる葉がアスファルトの歩道や岸辺の土や芝と重なっていく。葉っぱの色も緑、赤、黄色、茶色...それぞれの色の濃淡やグラデーションがある。同じ川沿いでも、場所によってさまざまな色が重なり合っていくつもの表情を見せてくれている。少し前、子どもたちと好きな色について話していた時に、「薄いむらさき」とか、「薄い水色」って答えた子がいたのを思い出した。色の見方、見え方、受け取り方、普段の生活の中であの子たちが感じている色は、きっと私の何倍もあるんだろう。

そして走るを通して楽しむ紅葉は見るだけにとどまらず。近所の公園に向かう途中の道、足元を見れば落ち葉が積もっている。走って踏んでいくとカサカサカサカサと音が続いていく、着地はフワフワ柔らかい。整備された道を走ることが多いからこの感触は新鮮で、いつもと違う着地の感覚がおもしろい。そして、普段通勤や買い物で通る道では味わえない、今の季節でしか味わえない感覚だ。この前、仕事の訪問先で子どもと一緒にテレビを見ていて、おじゃる丸が落ち葉を踏みながら楽しそうにしている場面があった。その気持ち、めっちゃわかる、楽しいよね!こんなにおじゃる丸に共感できるなんてって思ったら、それも可笑しくて一緒に笑ってしまった。

音で感じる秋もあった。これは駅の向こう側にあるお寺でのこと。このお寺は、市が発行している「わくわく歩くるめマップ」に載っているウォーキングコースで紹介されているスポットのひとつだ。市役所に行った時、このマップを見つけて、それ以降時々訪れている。山門や総門の壮大感、観音様や鐘楼、十二干支のお地蔵さまが並んでいる、とても静かで落ち着くお寺だ。そして銀杏やもみじの紅葉もきれいなのだけど、どんぐりがたくさん落ちている場所があった。こんなにたくさんのどんぐりを目にするのも久しぶりだなあとしゃがみ込んで見ていた時、トンッ、トンットン、と音が続いて聞こえてきた。何の音?と思ったとき、自分にもそれが当たった。お地蔵様の上にあるトタン屋根に、どんぐりが落ちている音だった。トントンットントンとリズミカルに続いている、落ちる瞬間を目にするのは難しいけど、音がそれを伝えてくれる。風がちょっと強い日に走って味わえた秋の音。思わずどんぐりを拾って帰ろうかななんて思ったけど、虫が出てきたらこわいのでやめておいた。

2年前に走り出した10月、まだ走るを楽しむ余裕はなかった。すぐにゼイゼイ息切れしてしまうのも恥ずかしくて、人があまりいない夜に走ることが多かったので近所の紅葉は記憶にない。
去年は、ハーフマラソン完走を目指して練習していた秋だった。走り続けられることが、走れる距離が伸びていくのが楽しかった。出るからには絶対完走したくて練習していて周りに目を向ける余裕はあまりなかった。ご近所の秋模様、やっぱりあまり記憶にない。
今年、距離もペースもある程度自由に調節できて、走るは行先も方向も自由でいいんだと思えて。ご時世的にも旅行など遠出が難しいのも重なって。走っていろいろな場所に行くようになった。気になるものがあると立ち止まって鑑賞、写真撮影、ふらふら道を逸れる、給水、休憩。道中の自然や生き物、歴史、神社仏閣、個性的なお店や建物、楽しめることは近くにもたくさんあって、寄り道ばかりのランニング。そんな寄り道をしながら、今は秋を楽しんでいる。こんなに魅力的な季節だったことにびっくりしながら。

学校帰りの寄り道が楽しかったように。気の赴くまま走ってみたら、今まで気づかなかった楽しめることにたくさん出会えた。もう10年以上この街に住んでいるのに知らなかったことが多くて、今更ながら自分の住んでいる街に親しみや愛しさを感じている。
そして40も半ばになって、スパッツに短パン、手ぶらで自由に街を動きまわるなんてランニング以外にありえない、身軽は寄り道し放題。走るに何かを重ねることはない。走るは、ただただ楽しいこと。

と、そう思っていたのだけど。重ねずとも、走り方って人生を反映させているのかな、だからこんなに人によって走るは違うのかな、と気づいて、今ちょっと落ち込んだりもしている。
この歳になってもひとりでふらふら(身軽)、やりたいことはとりあえずやってみる(寄り道が多い)、器用とは言い難いのでいろいろすぐにはうまくいかない(くねくねと遠回り)。好きなこともあるし、仕事も今の分野で続けていきたいと思っているし、それなりに毎日楽しくやっているけど(走るのは楽しい、走り方もわかるようになってきた、きっとこれからも走り続けていくことは決めている)。人生の季節的にも、秋半ばにさしかかる頃と思われる今、このままで、このやり方のままでいいのかな?と、これを書きながら考えてしまったのだ。
でも、こんなランナーがいてもいいかしら。走り続けるからだとこころがあるなら、そんな秋の景色を十分に味わってみよう。

最近、新しいランニングシューズを買った。走り心地のよいこのシューズが、私の気ままなランニングをさらに楽しく、いろいろな場所へと導いてくれそう。今度はどこを走ろうかな。

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