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気持ちはハンドメイド

小さなころのアルバムを見ると、姉とおそろいの洋服を着て
カメラを気にすることなく納まっている私がいる。
お洒落を気にする年頃になると、母が持っているハンドメイドの鞄がここにないことを残念に思ったこともある。

そんな母に育てられた私は、ミシンを見ることはあっても自分で使う事など皆無だと思っていた。
母の手で作られる数々の洋服は魔法のようだと感心しながらも、
ちょっとうっとおしく感じることもあった。
時代はバブル絶頂期、ブランドに身を包むことがステイタスとされていた。

大学を卒業し、数年が経った頃私の結婚が決まった。
そんなある日、母は私にひとつの課題を与えた。
「結婚するなら、ミシンのひとつも使えるようになってからにしなさい。」と、小さな洋裁学校のパンフレットを差し出したのだ。
それも一理あるかと、我ながら素直に従ったのは今でも不思議なくらいである。

学校といっても、先生の趣味のような小さな教室で、
皆さん自分の作りたいものを自由に制作していた。
何もできない私は、基本を教わりながらスカートの制作を始めた。
悪戦苦闘の日々は続く。
先生も根気よく付き合ってくれたものだと、今更ながらに感謝に耐えない。

やっとの思いで作り上げた、私だけのスカートにちょっと愛着が湧いてくる。
今度は何を作ろうかと、いろいろと思いを巡らせていると、
先生はもう一枚同じスカートの制作をするようにとおっしゃった。
ちょっと、へこみそうな気持になったが、
いわれるままにもう一枚。
さらに生地を変えてもう一枚。

気が付くころには、先生に聞くこともなく完成するようになっていた。
ちょっと楽しいかも。
気を良くした私は、それからいろいろなものをせっせと作っていた気がする。

私の婚約期間は2年。普通、そんなに長いことはないのかもしれない。
それほど結婚をしたかったわけではないが、大学1年から付き合っていた彼と、これからのことをはっきりさせておきたいというちょっとわがままな私の悪知恵だ。

それだけの長い時間があったからこそ洋裁学校にも通うことができた。
あるとき私は、学校主催のファッションショーに出ることが決まった。
もちろん、自作の洋服を作らなければならないのだが、何を作ろうかと考えた挙句、ちょっとしたドレスを制作しようと思い立った。

普段、作ったことのないドレス作りは本当に面白く、あっという間に時間が経っていた。
思い描いていたドレスがかたちになったとき
成し遂げた喜びと、その出来栄えに胸が躍った。

この時にウェディングドレスを作ろうと決意した。
自分の思うそのままを真っ白なドレスに作り上げたくなったのだ。
母にはまだ早いといわれたが、先生の手を借りて制作を開始した。

桂由美さんのウェディングドレス写真集を買い、イメージを膨らませる。
大輪の花に囲まれたドレスのイメージが出来上がった。
生地はシャンタン。
花の芯をどうするか。いろいろと作っては失敗を繰り返し、これなら
ドレスの後姿も胸元にもしっかりとした花を咲かせることができる。
そんな方法を思いついた。
ドレス自体はシンプルに作れるが、それを引き立てる小物の制作が思いのほか大変だった気がする。

結局、ブーケも自分で作った。
ティアラも購入した。
靴も白生地で作った。

ここまでやったら、カクテルドレスも作りたくなった。
ウェディングドレスとは対照的に小さな花々に囲まれたドレス。
帽子にも同じ花々を添えて。
紫のオーガンジーを何枚も重ねて、前スカートの丈は短く、後ろに長く。
床にまでこぼれる黄色の花々。
一番の苦労は花を一輪一輪色付けから始め、コテで少し丸みを出し、全て手作りしたことだ。
間に合わなくなりそうで、彼にも手伝ってもらった。

余りにもドレス作りに集中しすぎて、新婚旅行は上の空で聞いていた私。
しびれを切らした彼に叱られたこともあった。

やっとの思いで2着のドレスを作り上げ、出来上がったドレスは何度見ても最高の自己満足だった。
誰のためでもない、自分だけの大切な儀式に臨むための正装。

あわただしさの中、怒涛の如く結婚式が終わった。
何だろう。とにかく疲れた。

あれから20年。
アルバムの中で微笑む私は最高の満足感に包まれている。
そして、私の子供のアルバムには私が作った洋服を着て
無邪気に笑う子どもの笑顔が納められている。
口に出してまだ言えていない、母への感謝。
私に与えてくれたのは、私というブランド。
私でしか成し得ないハンドメイドな心なんだね。

教えてくれて、ありがとう。


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