愛される障がい者像の闇

障がい者福祉の世界には「愛される障がい者像」という言葉がある。

これは、健常者に愛される(好まれる)障がい者の傾向のことであり、学術的に決まった定義はないが、一般的に「障がいに甘えず、健常者と同じ働きをするよう努力して、適度に社会に頭を下げながら弁えている人」と言える。

この愛される障がい者像が、問題になることがある理由は、ある意味において健常者からの障がい者への押し付けや、選民的思想(健常者の都合で大事にする障がい者を選べるという考え方、健常者に障がい者の社会的生殺与奪権を与えるという意味)のほかに、障がい者の自己実現を妨げているという指摘がなされることがあるためである。

この愛される障がい者像は、社会や環境があまり気にしないうちに、障がい者に無意識に期待している側面がある。

このような状態では、良い障がい者と悪い障がい者を区別することが起き、悪い障がい者への迫害や良い障がい者の過剰な社会的利用(頑張る障がい者のPRにするなど)が進んでしまう。

ここで完璧に欠落しているのは「障がい者も人格のある人間であって、道具ではないし、2等市民でもない」という視点になる。

さらなる問題点として、この愛される障がい者像は、アンテナが敏感な障がい者に対して過剰に作用することがある。むしろ、本来届いてほしい、障がい者様になってる人や、障がい者だから何をしても良いと言った考え方の人には届かない場合が多い。

結果として、すでに、比較的愛される状態の障がい者が、過剰に適応しようとして、二次的な障がいを発症したり、疲労やストレスからくる身体的な病気になることもある。

こうした、愛される障がい者像は、いわゆる「問題行動を起こさない障がい者」に対しては脅迫的に作用し、過適応をもたらす一方で、届いてほしい障がい者には無効という事態が起きる。

この場合、すでに問題のない障がい者から見ると、常に社会から脅されているように見えてしまい、本来なら問題にならない自己表現や自己実現を控えるようになるという非常に悪い結果が待っている。

無意識に「愛される障がい者像」を押し付けていないか、一部の障がい者の問題行動を見て、全体の障がい者をそういうものだと考えて非難していないか。

私も含めて、気を付けていきたいと思う。

以上です。