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楳繧

こんにちは。
生きている限り出会いと別れは付き物ですよね、意識の外であっても行なっていることです。

ただ、私は別れるのが悲しいのでなるべく出会いたくない派なんですよね。
出会いも出会いで、ゼロから関係を構築しないといけないので出来るだけ避けたいです。
ただ、出会った、というよりは出会ってしまった時にはなりふり構って要られません。
経過時間なんて関係なくて、波長が合う人はたとえ初対面でも旧友かのように接することができます。
そんな人は大切にしたいと思うのでその人にとって何が最善なのかを1番に考えたいな、と思います。

ただ、その人の背景をある程度知っていないと思いがけない穴や壁にぶち当たって必要以上に抉られてしまうので注意ですね。

抉られても構わないと思えるような人であれば問題ではありませんが滅多にいないですね。

人との別れなんてものは心にぽっかりと穴が開くようなもので、時間と人である程度は埋まりますが、自分の中で消化できない限り消えることはないものなのではないでしょうか。
その穴も埋まればいいけど、埋まらなくてもそれはそれで自分の何かになっているので悪いことではないと思います。

どんな経験でもその人を形成する何かしらにはなるので、「そんな無駄な経験ないよ」と言って突っぱねてしまうのは非常にもったいないことだと思うし、それを人に強要するのも違うと思います。
何事も、いい経験したな、と感じられるような心の幅を持っていたいですね。

私は人と話す時には本心をなるべく出さないようにする癖がついているのですが、それを見透かされてると知った時に、アイデンティティか揺らぐというか、本心だと思って話す次の言葉がよく考えたらもはや本当か嘘かわからなくなってしまいます。

実際にお会いしている人がこのブログを見たら日常が虚構だとバレてしまうし、きっとこのブログを読んでいる人が日常でお会いした時には、こいつ拗らせてんなぁってなるんだろうなというところまではわかりました。

これは、完全に育った環境が影響しているところではあって、基本的に信用してもらえない人生だったので、それなら、その人にとって都合のいいキャラクターを演じてしまえば相手は喜ぶし、一定の信用は得られると刷り込まれてしまっているんです。
外的要因の所為にするのは好きではないのですが、これに関してはもうそう認めざるを得ない。

ただ、おかげさまで自分のことがわからなくなってしまうし、本心とそうではない部分の区別も怪しくなってしまっているので、いざという時に何も言えなくなってしまいます。
私ってどういう人間だったっけって。

やはり外から求められるものを受け入れてる方が圧倒的に楽なのでそっちに傾いてしまい、ありのままを求められた時に混乱の嵐。
もしかしたらその混乱の嵐こそが本質なのかもしれないですね。

それはそうと、今日、人生で初めて修羅場というものを目の当たりにしました。

目の当たりにした、というかそのうちの1人だったのですが、あの場の当たり障りない空気といったらないですね。当事者はとにかく必死で予防線張って、鉢合わせした人は多分何が何だかよくわからんけどやらかしたのか?っていう気持ちになっていたと思います。

あんなスリル満点な現場なかなかないですね、迂闊な一言を飛び出させてしまわなくてよかったです。
それこそいい経験をしました。

帰り雨降ってなかったけど傘を持って帰ってきたの本当に偉い。

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