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荷川取雅樹さんはすごいひとだ。

荷川取雅樹さんの本がボーダーインクから出た。
タイトルは「あの瞬間、ぼくは振り子の季節に入った」。
なんという長いタイトルだ。

いま、私はその本を膝の上にのせている。あったかい。よくわかんないけど、温かい。

今日、荷川取さんの話を書くには、自分のことも書かなきゃいけないと思ったので、書いています。

突然ですが、私は、自他ともに認める、宮古有名人だ。
「自」の方は、最近、ようやく認めました。だって、宮古では、私の知らない人が私を知っているからです。おかげで死にたくなるほど恥ずかしくなる時もありますが。

昔、「読めば宮古」(ボーダーインク刊)という本を編集執筆したことで、宮古ではハリポッターより売れた。結局、累計どれくらいになったかはわからないけれど、毎年というくらい刷りがかかる。

と、いうか、当時、私たちはドメスティックな駄文を、誰かが読んでくれるとは思わなかった。熱い気持ちだけが文を引っ張るような、荒削りなものだったから。

私はと言えば、あこがれの編集、新城和博さんと仕事が出来ただけで、うれしくてしょうがなかったけど、この人に迷惑をかけてはならん!と思い、本を売る行脚にも出かけた。

それくらい、誰も読まない本だと思った。

書いている私たちは死ぬほど楽しかった。
でも、そりゃ、他人から見たら、自慰行為にしか見えないひともいるだろう、と編集途中に、一抹の不安を覚えながら。

私は、そのとき、自分の名前をそのまま使った。すごいストレスだった。普通から程遠いところにいるし、目立つのは嫌いだし、人見知りだし、偏屈だし、理解されにくいひとでもあると思うので、私にとっては苦渋の決断。

それでも、出したのは、きっと宮古の狭い世界だから、文句を言う人もいるだろうと思ったからだ。関わってくれたひとたちが「宮国優子にそそのかされた�」と言ってもいいように。

実際、予想は的中。めちゃくちゃ怒られた。そして、ちょうど第一子の産前産後で、電話はなりやまなかったので、軽くノイローゼになりました。(その第一子は、明後日、高校受験です、マジか)

なので、私を窓口にして正解だったのだ。でも、どうしても作りたかった。

ただ「私たちの宮古を書いておきたかった」からだ。

島は、目の前でどんどん変わっていく。島を離れたわたしと、島に住み続ける友人たちと「これはなんなんだろう」と思案した結果、書くことにしたのだ。

「書いておかなければ、いつかわたしたちも忘れる」

そう強く思った。

翌年、二作目も出て、それから10年たって、また本を作ろうと話になった。

「読めば宮古」を書いていた友人たちのなかには、疎遠になった人もいた。特に中心人物のKが亡くなったことは、私には大きかった。彼の一人暮らしのマンションが編集室だった。

そして、私の自宅のテーブル。パソコンのメールボックスは毎日いっぱいになっていった。

当時、一般の人もメールができるようになった頃だった。Kは、電話やメールを頻繁にくれた。それも相当ヤバ目な感じで。飲みながらなので、意味がわからなかったけど、それなりに面白かった。

Kと付き合うのをやめた友人もいた。私も彼を何度か怒髪天をつくくらい怒ったことがある。

本当に困ったひとだったけど、大好きだった。もちろん、友人として。いや、彼はどう思っているかわからないけど、私は親友だったと思っている。彼がいなければ「読めば宮古」は完成しなかった。もちろん、誰一人欠けてもなのだけど。

最後に、友だち三人でふざけて取った写真は、彼の瞳の奥に、私が写り込んでいた。それを見つけた時は涙が止まらなかった。

そして、読めばの三冊目のお話が来た。が、遅々として、すすまなかった。彼もいない、場所もない、みんな忙しくなったからだ。そして、人生の風景も変わり始めていたのかもしれない。

でも、私は荷川取さんをみつけた。みつけた、と言ってしまっていのだろうか。恩師や友人たちが、会いに行こうと言ってくれた。

荷川取さんは、アホな私の話を聞いてくれて、宮古に帰るたびに、時間が空くと急に連絡をして会いにいった。そう、原稿をお願いしたのだ。

彼はすぐに何篇も送ってくれた。

実は、その原稿をもらって、私は完全にやる気をなくしたのでした。

私は当時、荷川取さんにメールでこう書きました。

「荷川取さんの原稿を読むたびに、自分の才能のないことを突きつけられているような気がしたのです。外に出て、たくさんの仕事を教えられ、たくさんの人に刺激を受け、それでも私はその才能も根気もない」

本心です。今もそう思う。

そして、相変わらず、新城さんと「読めば」どうしようかねぇとばかり言っていた。

でも、新城さんは頭がいいので、きちんと次のことを考えてくれた。

満を持して、ボーダーインクから荷川取さんの本が出た。

読めばのあの無駄な躍動感がたくさんつまっている。

Kが生きていた時に会わせたかったなと思った。ついでに、Mも。彼も急に亡くなった。バカにしながらも「お前は頑張れ」と言ってくれた同級生だった。

話が戻るが、私は自他ともに認める局所的有名人だ。

でも、わたしは、真ん中にいるわけでもなく、メジャーが好きではない。どっちかと言えば、言いたいことが自由に言えればいい。

なので、自分のことは、はじっこの人間だと思う。その日暮らしが身に染み付いている。安定したところにいると、そわそわと落ち着かない。でも、やっぱりちょっとは安定していたい。はじっこでいつも落っこちそうになっている。

それは、もう、昔からそう思っていた。

KもMも、世の中から見れば、そうだった。私は、荷川取さんもそうじゃないかと思っている。自分しか生きられない人たち。みんな、宮古の街中の子だ。それは、小説を読むと、よくわかる。

さて、彼が書いてくれたあとがきを、さっき開いて泣きそうになった。いやいや、荷川取さん、お礼を言うのはこちらの方です。

実は、私はこの時点で読んだのは、読めば用にもらった短編の数篇と、一番最初の短編だ。

もう今はない固有名詞がたくさんある。丸勝とか。「馬糞と排気ガス」その言葉といっしょに色鮮やかに景色がよみがえる。

なんだか、もう本当に躰がざわざわする。すぐに読み切ってしまいそうだ。

あぁ、わたしたちは、あの頃の、あの島の空気のなかで、生きていたんだな、と思う。

島を知るひとも、知らない人も、この本をぜひ手にとってほしい。

荷川取さんの表現はストレートでナイーブで、とても宮古的。

悔しいけれど、その手触りを言葉にすることはできない。









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