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光と影 沖縄は自殺率全国一位

本土の人たちが思う沖縄イメージは「青い空で青い海お気楽」というものかもしれない。テレビには、夏に向かって、明るい沖縄ばかりが流れるから。みんなのんびりして、幸せに見える・・・ようだ。

でも、私は違うと思う。確かに幸せな人はいる。でも、そうでない人も多い。

沖縄が、全国で飛び抜けて、自殺率が高いことはあまり知られていない。詳しく知りたい人は、私が末尾にネット上だけですが、参考にしたものを見ていただければと思います。

中高年層が数値として異常に高い。それも年々増加傾向だ。今の沖縄を物語っているようだ。重苦しい社会でもあると思う。

社会の構造を考えると、そうならざるを得ない。辺境には、さまざまな意味でしわ寄せがいきますから。

だからといって、被害者とは思わないし、思いたくはないです。でも、裏をかえせば私の超個人的な「あららがま」なプライドがあるだけかもしれないです。

沖縄の男性のDV率も半端なく高いし、いろんな意味で、中高年の危機の時期に折れてしまう。そのやるせなさが、内に向かうか外に向かうかのちがいでしかない。その時期は、公的にもプラベートでも問題は頻発する。若いうちはごまかしが効いたことが、ごまかせなくなるからだ。

私は彼らが簡単に死を選んでいるとは思わない。そして、沖縄の人が特別弱いわけじゃないとも思う。

みんなその立場になれば、そこに流れていく。人はそんなに強くないし、誰もが凡庸だからこそ、ある一定の環境にいれば、犯罪を犯したり、スレスレのことをしたり、死を選んだり、死を選ぶような言動を繰り返し、社会から抹消されるようなことをしてしまう。私もその立場にいればそうなる自信がある。

全部が環境のせいにするわけではないけど、沖縄、離島が特段の、ガラパゴス的に近代化したことは人の心を追いつかせなくなったと思っている。これは沖縄の影の部分だ。光が強ければ、影も強い。その影の部分を担ってきた祭祀行事など、アイデンティティを支えるものが消えつつあるのは、非常に危ういと思っている。

人は頑張ればなんとかなる、とは、まったく思わない。

だから、頑張れないときにどうやって乗り切るかをいつも考えている。

私は、いつも冗談で「死んだフリ」と言っているが、心底、思っている。「死んだフリ」以外、乗り切る方法が思いつかないから。「死んだフリ」で、状況をただ受け入れること。怒ったりしていると、エネルギーをもっていかれる。野生動物のように傷が治るまで寝てればいい。頑張らなくていい。

そして、時が来れば、復活する。自然に。その自然治癒力を「死んだフリ」して、自分のなかで貯めていればいい。何年かかってもいい。

心折れた友人に対しては、自分に何ができるだろうか、といつも考える。できないこともあるかもしれないけど、できることもあるかもしれない。でも、みんなが声を出せるとも思えない。人には、さまざまなプライドがあるからだ。

友人も含め、私のまわりには人生の落伍者と自分自身で認識しているひとはいる。必死で、今の生活を保つために、耐えている人もいる。でも、だからどうなの?と思う。

落伍者には落伍者の生き方があるし、なぜ、人に落伍者と言われなければ、判を押されなければいけないのだろう。なぜ、耐えなきゃいけないのか、と思う。

人が名付ける言葉や同調圧力を受け入れる必要はない。それこそ、必殺「死んだフリ」です。

自殺した友人も、生活が困窮した友人も、犯罪を犯してしまった友人も、お金持ちの友人も、社会的に成功した友人も、幸せのまっただ中の友人も、不幸のどん底の友人も、私には等しく、友人だ。

人はいつ自分がそうなるかわからない。

だから平等でいたい。できない時もあるけど。その人をまるごと受け止めたい。陰口じゃなくて、ちゃんと面と向かって、本音で話したい。我慢できないことは、我慢できないというので、率直に言いたい。その自由はあるから友だちなのだ。

口にだすこと、すべてがいいわけじゃないけど、心に押し込めていては、いつか爆発する。爆発した先が死を選ぶことなら、私は本音で話して、膿を出したほうがいいと思う。辛いと言い合える、友人が一人でもいればいい。仲間ならもっといい。

そして、他の人から甘くしてもらえる人は、私が甘くしなくてもいいと思っている。でも、ずっと伴走したいと思う。時折、建設的な意見をプレッシャーにならない程度に言おうと思う。苦しい時も元気なときもいっしょにいたいと思える友人でありたい。

私がずっと後悔していることは、自ら命をたった友人たちに何もしてあげられなかったこと。自分なりに精一杯よりそったつもりだけど、多分、それでも足りなかった。

友人たちが「あららがま」が足りなかったんじゃない。ほんの少しのことにまわりの私たちが気づかなかったんだと思う。書いているそばから、自分の傲慢さに気づく。

「ほんの少し」のことが、彼らには「ほんの少し」じゃなかった。人生の意味がたくさん詰まった「苦しみ」だったんだよな。私は、その答えを彼らからもらえなくなってしまった。彼らが同じ世界を生きていないから。

ただいっしょに、もっと、彼らの不幸を笑い飛ばす時間が必要だったんだと思う。その時間がさけなかった自分が憎いほどだ。

人は生きているのではなく、生かされているのだと思う。

沖縄の一側面であるこの自殺率の高さは、何を物語っているか。

いろんな人の切り取り方で、考えて、教えてほしい。

イメージの沖縄がないように、イメージの東京もないし、沖縄にふれたとき、頭ではなく体感してほしい。

島の人が日常的に使う「運命」という言葉が、実はどれだけ重いか、一度考えてほしい。

いやー、読み返すと、要求が多い。欲望の塊に見える。

それでもいいから、これだけは言っておきたかった。

沖縄の光と影を知っているからこそ。

自分が何ができるか、いつも考えていたい。

参考

http://www.porsonale.co.jp/semi_i197.htm

http://tmaita77.blogspot.jp/2015/07/blog-post_2.html

http://scoop.ti-da.net/e1366662.html

http://www.pref.okinawa.jp/site/hoken/kenkotyoju/seishin/documents/jisatsu-koudoukeikaku.pdf

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