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竹取物語の帝はヘタレではないのか説(あくまで超個人的な説です)

私は、ひとの話を無防備に聞いているようなところがある。
社会的な問題意識も、自分の身に起こったり、実際に話を聞いたり、実感しないと頭が回転しない。

普段、何も意識化していないものには考えなどあるわけがない。なので、聞いているだけになる。

ということは、反対に自分が実感していることや、日々考えていることには、死ぬほど拘泥する。文句も人一倍言う。なので、とらえどころがないな、と思われることもあると思う。だって、ぼんやりしてたり、急に暴れたりするのだから。

まぁ、いいや。

何が書きたいかというと、最近の勉強会のことだ。大岡山の店というか事務所でいろんな勉強会をやっている。そのうちのひとつがこれ。

つながるゼミナール② 読書会「古層から読む幻想小説」 

友人の谷川ゆにには、申し訳ないけど、街場の先生のゼミみたいになっている(後半はほとんど雑談)。

そこで、私の悪癖という拘泥が出た。

なんの話からかというと、かぐや姫、そう竹取物語の話だ。なぜ民俗学からそんな感じの話なのか、まぁ、一応はつながりがあるので、我慢して最後まで読んでほしいです。

私は昔からかぐや姫の話は腹がたっていた。腹がたっていた、というのは言葉がふさわしくないかもしれない。子どもの頃から違和感満載だったのだ。

はっきり書くと、帝がヘタレだと思っていたのだ。いっしょに月にいける能力も度量もないのかよ・・・と。

そしたら、いっしょに勉強している青年Kくんが「まったく意味がわからない!」と笑って言った。実はこの話は昔から良くしていて、みんなに「宮国さんってば!」みたいな扱いをうけてはいた、たしかに一度ここでまとめて書いておく良い機会かもと思って書き始めています。

で、私の意見「帝ヘタレ説」なのですが、そう思うものは、そう思うのだからしょうがない。

ひとしきり笑われた後に、頭の良い谷川ゆにが助け舟を出してくれた。
「優子は、トビウオの話がメンタルの底辺だからそうなるんだよ」的なことを言ってくれたのだ。

そうか、そうなのか。ありがたや。自分でもわからなかったわ。

さて、そのトビウオの話とはなんぞやですが、こういう宮古の伝承話があります。ざっくりまとめます。

島の青年がある娘に恋をした。娘は実はトビウオだった。それを知った青年は、いっしょにトビウオになって、海に二人で帰っていった。

というやつです。うろおぼえだけど。

なので、私はかぐや姫が月の住人であれば、帝よ、お前も月の住人になれよー、と思ったのだと思う。

かぐや姫への求婚者は、石作皇子、車持皇子、右大臣阿倍御主人、大納言大伴御行、中納言石上麻呂足。実はそれぞれ実在した歴史的人物。

名前を見るとわかるように、まぁ、たいしたおぼっちゃんズでもあるのです。偉いひとたちを笑い飛ばせる平安のひとたち、ある意味すごい。

当時の貴族の結婚といえば、男性の出世は女性との「恋愛」で左右される。貴族の世界は、恋愛が権力を得る手段。今ならさしずめ、有名人や金持ちと結婚したいとかに似てるのかも。

竹取の翁も、「この世の人は、男は女にあふことをす、女は男にあふことをす」とかぐや姫をさとす。男は女と結婚して、女は男と結婚するんだ、という実家のプレッシャーみたいなものだろうな・・・。

おぼっちゃんたちがかぐや姫にダメだしされて、コケにされている物語でもある。作者不詳だけど、描写の細かさを考えると意地悪さ半端ない。作者不詳にしないと表に出せない物語ではあるかも。

脱線してしまった、さて。竹取物語の話に戻ります。

そのおぼっちゃんたちの失敗話が帝の耳に入ると、帝はかぐや姫に会いに行き、夢中になるというくだりがあります。それも、あんたはミーハーか、というツッコミもしたくなる。

かぐや姫を無理やり連れ去ろうとするのもなんだか権力的。まぁ、それは失敗するんですが、三年の文通にこぎつけたあたりは素晴らしい。

ただ三年後、かぐや姫が月に帰るときに、兵士を2000人かぐや姫の家の周りに配置して迎え討つ準備がいきなり闘争的でもある。かぐや姫の性格を三年の文通でも理解していない可能性が高い。

結局は月の住人に連れ去られてしまうのだけど。そして、置き土産が不死の霊薬の壺。それを燃したのが、富士山の頂上にたなびく煙・・・っていう話ですよね。

それは「思慕ってる場合かい!」とツッコミを誘う。まぁ、この話も私の「帝ヘタレ説」のひとつ下支えにもなっています。

気持ちが本物ならば、というよりは、月の住人になるという選択が一ミリもないのに度量にがっかり、というのが私の主張。身一つになれないのか、あんた(帝)、っていう。

いっしょにトビウオになっちゃう男は、アホだけど幸せそうだ。置き土産とかないし。

まぁ、竹取物語は、宮中の権力などゴシップを揶揄しているだけなので、そもそも同じテーマの物語ではない。でも、恋愛という意味では、子ども心には期待があったのでしょうね、わたし。

そういうのとは関係なく、帝が月の住人になる方があっさりと楽しく、男女だけでなく人との関係性が喜びの上に成り立つ、っていうのが好みなんだと思う。

トビウオになった男も悩みはあったみたいだけど(お前はトビウオと結婚するのか!という村の声)トビウオになれる度量は潔い。世間の声より、トビウオの女のほうを選ぶのだから。

人との関係性においてはそれが王道だっていうのが、私の信念なのかも。いや、島の信念なのか。そういうのが、言語化されていなくても通底しているのか?謎。

はーーー!一度まとめておきたかったので、すっきりしました・・・。

勉強会という名前なのに、そんな馬鹿話ばかりしております。

年明けくらいから、泉鏡花のシリーズをはじめようと谷川ゆにと話しています。詳細は決まっていませんが、偏屈でこだわり屋の泉鏡花は、いまいち意味がわからない作品ゆえに評価された側面もある(と私が思っている)物語の名手。

谷川ゆに的には民俗学と深い関わりがあるようです。お時間ある方は、いにしえの心を慮って馬鹿話しましょう。島の話はそんなこんなでいっぱい出ます。

こんな馬鹿話を、最後まで読んでくれてありがとうございました!ほんと、朝からなに書いてんだ、わたし、笑。


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