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#note のつづけ方 #To New Version

月間10000000人。
凄い人気とファンと様々なblog大好きな作家さんがいると言うことなんですね。
これからも、ご発展を願いまた祈ります。

さて、私の#note のつづけ方の話です。

物語は『アイデア』が必要です。

と、言うことで、『アイデア』不足の人はこのnoteのテーマの分野が現在10+1ある。

それは、多様なジャンルがあることはそうした人々にとって、取り分け『アイデアの助け』に成っていることでしょう。

加えて、お題を『募集』されていることも、繋がりが持てて近親感と好感が持てます。
みんなのblogみたいな感じがします。

お題の種類が多いと、管理者側の観点では需要の種類の統計が出る。
数もAIが出してくれて、『このお題では、◎◎人の投稿があります』と、読者は判断できる。

それは、人気あるお題なので観てくれている人も多くなり、人に触れる率も多い。

しかし、だからと言って、それに評価を表明するかどうかは分からない。

ニュース記事の事で考えると『現代と昔とは違う』。

・昔は文字文化が主流、今は、デジタル文化、映像文化、
しかも、長い文と、長い数秒でも『あーじれったい』と感じ、0.何秒で他のモノをさがし、気に入ったものを、つまり選り好みすると言う事。

AI新聞になってからそれが無くなり、直ぐにこれはどうですかー、あれはどうですかー、と尋ねて来ます。

一昔前ならDMがポストに入っていました。
若者の殆どはDM興味無くポストの肥やしです。
お父さんは新聞の広告は全て下に落とし、お母さんが後でスーパーに行くためにそれを拾って置いてみるそうです、

まだまだありますが、また、他の機会に。

さて、下記にしたためた長い新聞記事の制作過程は今の人には合わないモノ。

(長い文がお嫌いな方は、飛ばすかここで終了することをお勧め致します。)

🍵🍰


年配者はメガネを掛けてでも昔ながらの新聞を長時間読むことが日課です。

🤓💕📋️📰📚️🗞️

今は、旧式の書籍と新聞雑誌が売れずに廃業に追い込まれる有名書店があります。その反対にスマホで読むことも学ぶことも、マンガも大人気とのこと。

明らかに、スマホ文化は今は全盛期です。

・かつての新聞記者は花形。その影には?

・昔の新聞記者は過酷な中で『時間』に終われて事件を追って、集めて、記事を纏めていたそうです。

聴くところによれば、夜中の00:00までに記事を新聞社や雑誌社に送らねばならない。

その為に、時計を気にして、ご飯も後回し。

体に悪いことをやっていたそうだ。

花形の『新聞記者』は普通、ノホホーンとした人では、(失礼ですが)出来ない。

昔の親父や頭の言う口調が今でもリバイバルしているみたいだ!

それは、こうなのだ。

・『ボーッとしてんじゃねぇよぉ!!』

と、カツが入ったもんだ。

今は、それを楽しんでいるみたいな時代だ。

それを聴くと、今は皆が笑うからだ!

これは、忠臣蔵の時もわざと『ボーッとしている』作戦でそれを人は知らず・分からず『昼行灯』と皆が評価してバカにしたのだ。

それは、あることを秘密裏に為し遂げるまでのこと。その振りをして、カモフラージュをしていたのだ。

その企ての成功は、自分達の処分、つまり、当事の反逆者として『謀叛』になったのだ。

夜明けに処刑場に向かう人々の中には、自分の愛する人がその行列の籠の中にいた。

愛情を普段注いだのに、その愛情共々、愛する者を失う時の一般庶民の感情はいかばかりだろう。

他方、今の時代は総じて、鳩の求愛ダンスと同じではあるが、ダメだと分かれば、その隣にいた雌鳩への求愛に直ぐ移り変わる。

変り身の何と早い現代と、忠臣蔵の時代の一途の愛とは違うだろう。

今時の若い娘はこう言う。

『手鍋提げても、なんて人、今はいないよね~!』

その言葉に、女の子たちはクスクスと笑い合うのだ。

それでは、今時の若い子の理想の人はどんな人?

として、聴いてみたいものだ。

・『昼行灯』。

さて、話を『昼行灯』つまり、昼間の外灯、これも今どきは見たことない!
と言われるが、

今なら、昼間の蛍光灯が相応しいかも知れない。

が、それも気にしないで電気を気兼ねなく使い、
エアコンも気兼ねなく使い、

お風呂のシャワーもジャージャー気にせず出したまま、何かを持ちに歩き回っている。

『ジャージャー文化』に生まれ育った方々には、何不自由ないので、

そう言うタイプの人の方が自分がストレス無く一緒にやっていけるのかも知れない。

それでも、子供が生まれたらどう言うのだろう?

子供には教育上と言う大義名分を振りかざし、
『電気は小まめに消しなさい!』
『水道の水は小まめに閉めなさい!』

と、子供の自由を『消したり』可能性を『閉めたり』していくのだろうか?

お父さんやお母さんの子供時代はどうだったの?

と質問されない限り、自分側に利があり、
質問され出したら、その日から口ごもるのだ。

『ま、その~』。

頭の中では過去の頃が、走馬灯のように巡り廻っている。

しかし、それは自分から言わない限り子供には分からない。

この場合、真実の『黙秘権』は親である自分にある。

その内、子供が大きくなると感が働き、検事のような追及が始まると、やがて敵わないと感じる。

正に、古畑◎◎◎の劇になる。

そこから、ストレスが着いて廻り、今までの付けの精算問題を考えなければならなくなる。

・あなたはお子さんにどのように映っていますか?

これも知りたい。

それで、そうした楽な生き方、それも又ある意味『ボーッとしてんじゃねぇーよ』の類いだと私は時たま思う。

と、ここで、全国のそうした人たちを全て敵に回したかも知れないとも思わない分けでも無いが。🤣

・お題が無く自由と言うこと。

本当にモノを書きたい人には、テーマが頭と心の中にある。

着いて廻る。

次の号にはこれを書きたい!

と考えて楽しみにしてるからである。

それでも、忘れてしまわないためには、

手帳にメモしている。

昔の有名な作家さんもそうだった。

二ノ宮金次郎は学校の庭から消えて無くなった。

あんなことをしていたら、誰かにぶつかって危ないからだ、と言う理由で。

良くそんなことを思い付くな~。ったく。

・今時の時代は車社会。

本を読んでいたら人に当たるように、今では確かに車に当たる。

なるほど、最近では、スマホから眼を離さない人が道を歩いている人とぶつかり、

自転車に乗りながら、スマホを弄りながら運転して、歩行者と当たり怪我をさせてしまったと言う。

◎◎◎◎ゲームに夢中の集団にも出会う。

そこまで熱心な人たちは、スマホ◎◎◎◎信者とも評価される。

熱中し難い日本で、それは珍しい。

トラックの運ちゃんでも、『ちょっと画面を見ていたら、事故りました』、とのこと。

それで、大都会から始まったスマホ『観ながら運転』は危ないから、止めましょうと言われながらも、

後を絶たない事件が収まらない為に、

自転車保険が私の中核都市までついに 10月から始まると言うのだ。

二ノ宮金次郎の時には、歩行者との衝突による事故保険そのモノがなかった。

もし、あれば二ノ宮金次郎さんもヘルメットを被り、障害保険にでも入っただろう。

そうすれば、二ノ宮さんは校庭から撤去されなくても済んだ筈だ。

スマホ事故を見れば尚更のこと、そのように言える筈だ。

スマホは撤去されない。

しかし、現代では自転車事故での相手への保障額が判決で『◎億円』の単位になった。

最高額は判例だと『無制限』とは言われていても、今は『3億円』限度のようである。

それは、確かに相手の年齢を思えば、将来の可能性、立場や仕事の重要性を思えば、仕方ないので、当然と言える。

しかし、反面、校庭から二ノ宮金次郎の像が消えたのは、『今は存在していない人』だから。

今のスマホは、シェアーが凄く経済的効果が絶大なので、それは公共の利益を考えてのことなのか。

二ノ宮金次郎的発想をする人も『スマホ』に対しては考えてはいないのだろうか?

死傷者がどれだけ出ても、『使用者モラル』だけの問題レベルで済んでしまう。

二ノ宮金次郎さんがもし、生きていたら、嘆くことだろう。

一生懸命勤労と勉学の勧めを説いたのに、現代の人は何たることか、と。

せめても、ヘルメットを私につけて校庭の隅っこで良いので、置いといて欲しかった、と嘆いているやも知れません。

校庭から市民権を失った二ノ宮さんは何だか可哀相に思う。

この『人権主義時代』に彼はその『人権』を失ったのです。

🔍️🕵️ ?事件簿。

これには何か得たいの知らない黒幕と陰謀がありましたね。

小説『二ノ宮金次郎と像 暗殺事件』。
~私はこうして殺された。

誰か、作家の方、そのテーマでこれをお書きになられませんか?

これが、もし、更に時代が過ぎて、通信手段が確保されて、スマホが不要となれば、それの存在価値も終わると私は予測している。

・スマホが世から消えるとき?。

通信手段の変化を、以前思い起こして纏めて他のblogに書いたことがある。

その最初の通信手段や機器は、今ではレトロであり、殆ど見かけない。

地方都市のリサイクル店そのモノが無くなりつつある中で、それは大都会の特権となった。

これから、5Gになり暫くしたら、更にそれは、2/3/4Gとなったように、6Gとか言う通信手段と速度を人は思い付くに違いない。

そして、7/8/9Gと言う具合に。

それは、二ノ宮金次郎さんと同じ運命を辿ることになるのだ。

ガラ系も◎モードが無くなり今ではインターネット時代で、カラパゴスとスマートホンの合の子のガラスマホとかガラパフォンとかが出てきた。

それは、ガラパゴスの予兆です。
愛すべき『スマホ』(カッコいい、賢い)も、後、何年で何に変わるのでしょう。

・これからの次期携帯電話の名称を募集しても面白い。

・タブレット。

この歴史はかなり過去のあの『モーセ』の時代に基づくと私は直感した。

英語でモーセの『石の書き板』をタブレット・オブ・ストーン とか、ストーン・ズ・タブレットとかいうのだ。

それは、英語的にプレートやボードと言う単語ではない。

面白いことに細長い・或いは小さな丸い薬の錠剤も『タブレット』と言う。

ネイティブの方には、そう表現するらしい。

・両者の比較考察。

二ノ宮金次郎さんとモーセの共通点を私は考えて見た。

どちらも、『大切な内容』の書かれた書を見ていたのである。

・二ノ宮金次郎のそれは、本。
・モーセのそれは、石の板に書かれた十の戒め『十戒』であり、神様から直に与えられた民に重要な当時の法律なのだ。
(法律的にはイスラエルはヘブライ法系と言う。律法と呼ぶが現代の法律と同じだ)。

私は、若いとき『モーセの十戒』の映画をみた。

若い私には、めちゃくちゃの感動を
した。

あんな昔の時代に、カラーパナマウント。音響と映像と天然色カラーの組み合わせだ。


当事は巨額を投資し、凄い数のエキストラを使い、
あのチャールトン・ヘストンと、ユル・ブリンナーが二大俳優だった。
今でも思い出せる。
兄と弟を分ける確執。
そして、最後には、互いに手を握り合う何かディズニーみたいな終わり方。
私は、何を隠そう映画大ファンなのです。
映画の中では、ユル・ブリンナーなるエジプト王子は生きていたことになっている。
最後に波打ち際に、彼はヨロヨロと現れるのだ。


・追及したいモノを作ろうとすること。

当事はまだCGなど無い時に、アニメ技術を用いてそれを作り上げたのだ。

何と言う技術とやる気が見える意気込みの映画だっだろう。

紅海を分けるシーンを私の友達に話すと、ケタケタと笑った。

彼は、あの科学の理科雄先生の科学的計算も出来ないし、彼をも知らない。

Kubotaが、万博の時に、その館のテーマはモーセの十戒の紅海を分けたそれを再現したのだ。

Kubotaの機械技術で。

勿論、KubotaはKubotaさんの考えで、
理科雄先生の計算は彼のそれで、
モーセのそれはそれで、何の文句を私は言わない。
私の言いたいポイントは、それが出来るか出来ないか、と言う点ではなくて、

それを再現しようと言う意気込みだ。

出来ません、やりません、知りません、ではお話にならない。

人間として、チャレンジする段階でその人にしか分からない、見えないモノが見えてくるのだ。

ロボット工学も然り、

無人走行車両も然りなのである。

そうした、チャレンジの上に未来への知恵は積み重なって見えてくるのだ。

これはカミオカンデで四つの大賞を取った学者の言葉に通じるものがある。

『独立独歩の研究で、しかも、自分一人だけで研究していても、ノーベル賞は取れません。

先人の知恵の上に、研究も重ねてこそそれは取れたものです。
私の力だけでは一生研究していてもそれは取れません。』

さすが先生。知見のある言葉です。

これからは、何でも連携と共同によらなければ人間面、人類も問題解決の糸口は見いだせないでしょう。

自分の利権を心配し、共同は嫌だと昔風の主張がありますが、

それは宝くじを共同で買うか、くらいの程度の同意だから問題が出るのです。

ビジネスなら、詰めることです。

・話を煮詰める。
・法的に利権の比率を分ける。
・共同研究の出資負担を契約書に認める。
・ノウハウの無断持ち出しと故意の漏洩。
それは、事件ですから、刑事事件としてお巡りさんに頼めば良いのです。
利権は、民事としても訴追できます。

問題は、悪いことをしないなら何の問題も出てきません。
何ら怖いこともありません。

そうした連携と協働なくしてこれからは『一人だけの力』は非力でしょう。

そうした点におきまして、noteのblog.の存在意義は大きいと私は思います。

・作家と言う人は育ち、多くの益を他の人に与え、世の中にこうありたいとの願いも発信できるのです。

全ては貴重な『材』の為に。

💐この場をお借りし、末筆ではありますが感謝の意を表しお礼申し上げます。🐻

©️10 September 2019.Amenbo-aoina.,my blog.No.34.

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