宇宙科学の始まり、多元宇宙論 ~1つの山すら登れない現代~
今回の記事は、
全く新しい考え方だよ。
分かりやすく言うのなら、
4次元思考だよ。
気になる人は読んでね。
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多くの人がしていることって、
1つの山を登ることだよ。
意味が分かるかな?
学問を学ぶこと、
具体的な何かを学ぶこと。
これらのことってね、
1つのことを学ぶことだよ。
1つのことを学ぶことってね、
高い山を登ることだよ。
ただね、
高い山とは、無学のみが登れるものだよ。
だからね、
現代の人々は、誰も山には登ってないよ。
山を登る言うよりは、
柱を立てることが、
現代の人々がしていることだよ。
そのことを、
学問を学ぶ、と言うんだよ。
その違いは、
広さ(無学)と狭さ(学問)だよ。
学問とは、理解を狭めるもので、
無学とは、理解を広げるものだよ。
この意味が分かるかな?
理解とはね、
柱の理解と、円の理解があるんだよ。
これを分かりやすく言うとね、
柱の理解を、物理学(具体性)と言って、
円の理解を、神秘学(抽象性)と言うんだよ。
その意味とは、
近道をすることが、柱を立てる知識を得ること。
寄り道をすることが、円を作る知恵を得ること。
この違いは、
原点と起点そのもので、
原点とは、寄り道から生まれ、
機転とは、近道から生まれるよ。
そして、
原点とは、円の中心から、
コンパス(フトマニ)の様に理解を重ねることで、
起点とは、
1つの事柄を視点にして理解することだよ。
これこそが、
円と柱の違いそのもので、
円を、新生学問。
柱を、後世学問となるよ。
これはね、
立体と平面の差を生むもので、
立体が、新生学問、
平面が、後世学問となるよ。
新生学問は、
原点(立体)からの円の波動性、
後世学問は、
起点(平面)からの柱の振動性となるよ。
言い換えるのなら、
円を中心に理解を多面的に広げることが、
立体の波動性となり、
柱を起点に理解を二面的に深めることが、
平面の振動性となるよ。
これは、
後々の大差となるもので、
柱は、1つの理解、
円は、全ての理解となるよ。
理解とは、原点からの読み解けるからこそ、
1つとなって、
起点から読み解けることで、
多数となるんだよ。
多数になることは、
余計な概念を増やすことで、
概念とは減らすことで、
理解を1つとするんだよ。
だからね、
いっくら平面的に理解してもどうにもならないよ。
理解の在り方が無限に増えるだけで、
そんなことをして分かることは、
個人都合のことだけだよ。
個人都合とは、無くしてこそのもので、
そのことを、
立体理解(新生学問)、と言うんだよ。
だからこそ、
理解とは多面的に理解してこそのもので、
立体性を確立してこそ、
理解は安定して磐石なものになるんだよ。
この考え方は、
本当に画期的なもので、
今までの概念を全て、ひっくり返すものだよ。
分かりやすく言うのなら、
将棋の最善の一手を打つ為の学びそのもので、
知識と感覚の在り方を、
逆転させることが答えを得ることなんだよ。
それを現代でしているものが、
藤井聡太君だよ。
ただ、
藤井聡太君ですから、
平面からの立体を読み解いているもので、
立体から平面を読み解いてる訳ではないよ。
そういう違いが、
立体(新生学問)と平面(後世学問)の違いだよ。
だからね、
何度も何度も、
理解をひっくり返した先にあるものが、
平面(知識)からの立体性(感覚)の確立で、
理解とは、
ひっくり返さないと本当の意味では、
形にならないんだよ。
物理的(平面)なものは、繋ぐことで形になるけど、
神秘的(立体)なものは、ひっくり返すことで形になるんだよ。
その在り方は全くの真逆で、
理解することは、平面がすること、
理解を解き放つことが、立体がすること、
となるんだよ。
2つは重ねてこそ1つとなって、
1つになることは、
後々の創造性に繋がっているんだよ。
その片鱗となるものが、
外の科学性となり、
その断片となるものが、
内の科学性となるんだよ。
片鱗は、小さい理解、
断片は、大きい理解、と言うことだよ。
まさに、
理解とは大きくしてこそのもので、
小さいまま終わるものを、科学性、
大きくなれることを、意識性、
と言うんだよ。
違いは、転換の数で、
転換が浅いものを、表層理解(上辺理解)、
転換が深いものを、深層理解(創造理解)、
と言うんだよ。
だからね、
理想の理解とは、
円の派生から広がるもので、
柱の派生から広がるものではないんだよ。
言い換えるのなら、
円とは、光派生(感覚)の学び、
柱とは、闇派生(知覚)の学びとなるからだよ。
光派生とは、人を選ばす、
闇派生とは、人を選ぶ。
言い換えるのなら、
光派生とは、全能の学び(区別がない)、
闇派生とは、部分的な学び(区別がある)、
となるんだよ。
区別とは、才能と非才能を必要とするもので、
才能を越えるものは、非才能からなる光派生。
才能に終わるものが、闇派生となるよ。
それが、
理解の在り方を示していて、
才能とは、柱を立てる平面性。
非才能とは、円を作る立体性となるんだよ。
円は、星であり、自然そのもの。
柱とは、高さであり、高さとは隔てるものだよ。
その違いが理解の違いとなって、
円は、自然に宿り、
柱は、才能に宿るものになる。
自然は、中心から広がる限りない理解となり、
才能は、尖ることで高まる限りある理解となる。
全ては、円から柱を見ることで、
その全貌は分かるもので、
柱から見たら円は見えないものになる。
何故なら、
円は、360度見渡せるもので、
柱は、高さとなり足下が見えなくなる。
しかも、
360度ではなく、
180度がどうあがいても限界で、
そこから、いくつもの柱を立てようが、
ハッキリ言うと、大差がない。
何故なら、
いくら柱を立てようと、
180度の視野は変わらず、
表の理解だけで終わるのが、
柱の役目そのものだからだよ。
理解とは裏を得てこそのもので、
裏とは、柱を崩すことからはじまるんだよ。
何故なら、
自身の足下を知ることが、裏そのもので、
足下を拒むことが、理解不足となるからだよ。
裏とは、原点(広さ)を知ることで、
円の波動性となり、
表は、起点(高さ)を知ることで、
柱の振動性となるんだよ。
この2つはね、見分けるものなんだよ。
と言うよりは、
見分けられない限り、
何も変わらないんだよ。
理解とは、
多面性を宿してこそのもので、
多面性を宿すには、
一度崩壊する以外に方法がないんだよ。
だからこそ、
この世界は、破壊と創造から生まれているんだよ。
破壊があるかこそ、創造が生まれて、
創造があるからこそ、破壊が生まれる。
破壊から生む創造性は、模倣となり、
創造から生む創造性は、創造そのものとなる。
破壊の創造性は、1から生まれるもの。
創造の創造性は、10から生まれるもの。
それは、
1が、柱を立てること。
10が、円を作ること。
だからだよ。
これこそがまさに、
規模の違いとなって、
規模の違いが、
理解の違いとなるんだよ。
言い換えるのなら、
プラスの理解が、柱の理解。
マイナスの理解が、円の理解。
となるんだよ。
これは、
知覚と感覚の違いそのもので、
知覚とは、個別理解。
感覚とは、全部理解となるんだよ。
柱を知るものは、真実を知り、
円を知るものは、真理を知る。
真実を知るものは、囚われを知るもので、
真理を知るものは、囚われを解き放つものだよ。
言い換えるのなら、
知識から学ぶものは、柱にしかなれなくて、
知恵(感覚)から学べるものは、円になれる、
と言うことだよ。
だからこそ、
固さは、柱となり、
柔らかさは、円となるよ。
柔よく剛を制すとは、このことだよ。
全体と個体の違いが、
柔よく剛の在り方をそのまま示しているよ。
究極とは裏返すことで、
万物の理解すらも越えるんだよ。
万物とは始まりで、
始まりを越えてこその理解なんだよ。
纏めるとね、
山を登ることは、
降りることが必要になることだよ。
高い山を登ることが、
理解を難しくするのなら、
高い山を下ることが、
理解を簡単にするからだよ。
高い山を登ることは、ある意味簡単だけど、
高い山を下ることは、ある意味難しいよ。
何故なら、
登ることは、与えて貰えること。
下ることは、与えて貰えないことになるからだよ。
自力力が必要なものは、
何事も与えて貰えないことの中にあって、
与えて貰えないものとは、
常に、
マイナス原理の中に宿っているんだよ。
だからね、
プラス原理が、与えて貰えること。
マイナス原理が、与えて貰えないこと。
となるよ。
この違いは、
記憶と忘却の違いで、
記憶を活かすものが、プラス原理の具体性。
忘却を活かすものが、マイナス原理の抽象性となるよ。
分かりやすく言えば、
技術(技法)は、プラス原理の具体性。
秘宝(裏技)は、マイナス原理の抽象性となるよ。
技法は、皆知っているけど、
裏技は、皆知らないよ。
形になる理解が、プラス原理で、
形にならない理解が、マイナス原理だからだよ。
言い換えるのなら、
その身に宿す理解のことを、
マイナス原理の取得、
その身より外に宿す理解のことを、
プラス原理の取得、と言うんだよ。
繰り返しが深いものが、
マイナス原理の取得で、
繰り返しが浅いものが、
プラス原理の取得だよ。
その2つを螺旋回転させることが、
創造原理の取得だよ。
その身に宿すまで理解を形にできないのが、
マイナス原理で、
その身に宿さなくても理解を形にできるのが、
プラス原理だよ。
言い換えるのなら、
才能があってこそできるものを、
プラス原理と言って、
才能がなくてもできることを、
マイナス原理と言うんだよ。
だからね、
プラス原理とは、表の理解で、
マイナス原理とは、裏の理解となるんだよ。
プラス原理の限界は、奥義までとなり、
マイナス原理の限界は、秘技となるよ。
奥義と秘技の違いは、
1と10の違いだよ。
1は、破壊性、
10は、創造性、
と言うことだよ。
だからね、
この秘技と言う、裏技を知ることが、
全ての創造性に繋がっていて、
秘技とは創造性に宿り、
創造性は、
マイナス原理に宿っているんだよ。
となると、
プラス原理は、模倣の原理となるんだよ。
全ては原点を辿ることで分かるもので、
プラス原理(近道)は、山を登ること。
マイナス原理(裏技)は、山を下ることとなるんだよ。
だからね、
与えられたものを活かして登ることは、
柱しか作れないよ。
与えられたものは手放してこそ、
山となるもので、
山は無学を知ることで、
山となるんだよ。
無学とは、全能に通じるもので、
科学とは、無能に通じるものなんだよ。
何故なら、
全部分は、無学に宿り、
部分は、科学に宿るからだよ。
理解とは、全能にしてこそのもので、
科学とは、偏るからこそ無能になるんだよ。
社会性が、科学の無能性を示しているんだよ。
一部の人しか扱えないからこそ、
科学とは、無能になるんだよ。
だからね、
偏りとはなくしてこそのもので、
そのことを、
一体化科学と言うんだよ。
全ては、
一体化してこそ1つとなるんだよ。
そう考えるとね、
科学とは始まりで、
始まりを手放すからこそ、
真の始まりが訪れるんだよ。
だからこそ、
何事も困難は付き物で、
困難を越えてこそ、
全ては実になるんだよ。
そのことを、
山登りの始まり、と言うんだよ。
全てを無くすからこそ、
山は登れて、
山は下ることから日の目を見るんだよ。
だからね、
山と柱を勘違いしていた人は、
無学、と言う山を登らない限りは、
何も実らないよ。
更には、
山を下ることをそこから求められるよ。
それが、
真の答えを知ることだからだよ。
だからね、
山を登る人、
まだまだ先があるよ。
むしろ、今、
山登りが始まったよ。
山は下ってこそ、真の原点回帰となるよ。
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