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僕のための言葉が足りない


僕のための言葉が足りない。

お風呂場で娘(生後5か月)の身体を洗い終える日課をこなし、妻に彼女の身体をバトンパスしたあと、休日ならではの時間の余白をと、湯船に身体を預けた瞬間に、その言葉が突如として降りてきたのが1週間ほど前のGW前半のある日のこと。父親として、夫として、また会社員としての日常がお風呂場の扉を開けばそこにある僕はそのとき、真剣に考えることをやめていたのですが、この言葉がなぜか頭と心から離れずに残っていることに今日気づきました。

僕のための言葉。それは思えば、いつも誰かが語ってくれていたものでした。言わずもがな、身の回りに親しか道しるべになる大人のいなかった幼少期。「二兎を追わずして自分の器は大きくならない」と勉強と部活との両立を真剣に語りかけてくれた高校時代の恩師。学生時代や駆け出し社会人の頃に出会った「社会人の先輩」が語る言葉はみな輝いて見えたし、一方で社会と少し距離をおきたい気持ちが訪れた夜には、村上春樹の「僕」が語るデタッチメントの香りが、僕自身を癒してくれていたのです。

そんな僕も社会人10年目の32歳になりました。村上春樹でいえば中期の大長編『ねじまき鳥クロニクル』の「僕」くらいの年齢になってはいますけれども、スパゲッティを茹でる昼下がりはあっても謎の女から電話はかかってこないし、突然に妻や飼い猫がいなくなるできごともおそらくはまあ近日中には起こらない。なにより僕はもう、どっぷりとこの"社会"に浸かって日々を生きています。

ああ、そっか、もはや自分で言葉を紡いでいかないといけないのだなと、僕の惑いや葛藤を正鵠を射るかのごとくに示してくれる言葉は待っていても現れないのだなと、そのことを1週間かけて自覚するに至り、このnoteを書くことにしました。

明らかに、どこにもたどり着いていない文章であるにもかかわらず、一方では明らかに、これは僕にとっての小さなはじまりを告げるものでもあります。

自分の言葉を持とうということ。そのための、扉を開くこと。自分自身のありかたとしても、表現としても、そうしたことをもっと大事にして、生きていきたいと思います。




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