人生いろいろ⑬ 青春篇(部活談義)

それでは学生時代に一番力を入れた「部活」の話に入ります。
Kに道連れにされ(?)スピードスケート部に入部した話は以前書きましたが、Kのスケート生活は順風満帆でした。1年生の夏に関西の大学チームで合同合宿があり(なぜか私は参加しなかった(帰省?))、その時からKG大学のT、OK大学のKとともに「関西三羽烏」と呼ばれるようになります。Kは筋力などは一般男性よりも劣り、腹筋などはか弱い女性未満だったのですが、スタミナがあったのと(長距離走など)とにかくスケートセンスがずば抜けていたこともあり、長距離を中心にメキメキと成績を残していきました。確か大学1年生の間に3000mの大学記録を塗り替え、2年生ではA級を取得したと記憶しています。

一方の私は、と言うと傑出した成績は決して残していないのですが、なんというかいろんな点でツイていました。
初めての全日本インカレでは二部ながら1000mで6位入賞とか、別に速い訳でも遅い訳でもないのですがモチベーションを保ち続けるようなきっかけを定期的に得られていました。

そんな感じで何とはなしにこのまま4回生までやり続けるのかなぁと思いっていたところ、確か大学1回生の1月か2月、めったに練習以外で部員全員が集まることはないのですが新主将から招集がかかりました。大学のある教室に部員全員が集まり「何かなぁ?」と思っていたら、「みんな、こんなんやりたくないだろうけど」と、Sが副主将、Kが主務、そして私が関西学生氷上競技連盟(以下、学連)の役員を命じられました。おそらく私の場合、コイツはチームをまとめていくタイプじゃないけれど、他大学との交わりで臆したりしないだろうといった評価だったのでしょうか。私の同期は結構ウチにこもるタイプが多かったですからね。
とはいえ、学連役員は、フィギュアスケート、アイスホッケー、スピードスケートの三競技をまとめなければなりません。また、大学4,3,2回生からなる階層組織。翌年度4月から「ペーペー」としてまったく知らない場に放り込まれるわけです。ましてや、スピードスケート部会といっても関西の所属大学は10を軽く超えます。そして、各大学の代表である主務達と合議のうえ意見をまとめていく必要があります。よほど人員的に手薄じゃない限りは3回生が主務ですし、上に3,4回生の先輩がついているとはいえなかなかの大役です。そもそも上学年や同期の学連役員の皆さんとうまくやっていかなければいけない。そして大会運営のため、関西(大阪府、兵庫県、京都府)の役員さんと良好な関係を築かなければいけません。そして、関西学連に慣れた先には日本学連のお手伝いもあります。

という訳で、学連には各大学ともエースを送り込まないんです。忙しくて練習する暇がないから。。。

とまあ、そんな大役だなんてことは一切知らずにお気楽に学連生活を始めました。その頃の経験が今も影響しているのでしょうか。当時の学連仲間(フィギュア、ホッケー)との関係は今も続いていますし、現在の業務でも異業種交流や他流試合がやたら好きですし得意です。

ちなみに当時は学連の事務所は大阪なんばのスケートリンクの控室?を間借りする形を取っていたのですが、フィギュアの地元クラブチームの更衣室と同室でカーテンで仕切っているだけだったので、向こうは向こうでガキンチョが大騒ぎですし、こっちはこっちでパソコンならぬワープロ作業(時代を感じる・・・)をせっせかと。忙しいときは京都からなんばまで週数回通ってました。クラブの練習と庶務でテンテコマイでした(苦笑)......。

まあ忙しいのは忙しかったですが特にそんなに不満などありませんでした。学連に入る前までは、京都府では「フィギュア>ホッケー>スピード」という序列ができてまして(他府県も概ね同じ感じかと思います)、リンク貸し切りの順番は一番最後ですし(確か23:00~25:00とかそんな感じ)、一般滑走でもスピードの連中ばかり監視員から注意されるので、「あいつらばっかり優遇されて!」、「俺らばっかり目の敵にしやがって!」などと思うことがしょっちゅうありました。それが、学連で実際に彼らと付き合うようになって、「やっぱりスケート仲間だなぁ」と思うようになりました。特に関西はスケートが盛んで、かつ当時大学生の選手はある特定校を除いては大学からスケートを始める人がほとんどだったので、変にプライドが高い人なんていないですし、(当たり前ですが)みんな普通の人だなぁと。私が学連に入った二年生のときの四年生は確か温泉旅行に一緒に行ったりしてましたし、みんな仲良しでした。
そんな感じで、大学のクラブと学連と、スケート関係でふたつの居場所ができた訳です。

そして、学連の業務で役員さんや主務の皆さんと接するうちにネットワークがどんどん広がっていきました。これは私の人生のターニングポイントになったのですが、MG大学のわずかひとりで在籍していたMKさん。ユニバーシアード代表選手でもある一学年うえのその方は子供の頃からの経験者なのですが短距離がめちゃくちゃ強い。よくバイクのレースなどでもコーナーで車体を倒す(バンクをかける、と言います)のをみなさんご存知だと思うのですが、この方のバンクは半端ないのです。かっこいいけど、そんなに足に負担かけたら絶対に長距離滑れないじゃないですか、という感じでコーナーをガンガンに攻めまくる。このスケートスタイルにほれ込んだ私は学連の場でもMKさんに接する機会が多少はあったのですが、更にはそのお兄さんが京都のKS大学で主務を務めておられたこともあり、どんどん距離が縮まっていきました。何が決め手になったのかわかりませんが、Mさん兄弟のご自宅に転がり込んだり、練習の場にお邪魔したり、全日本合宿の資料を見せてもらったりと様々なことを吸収していきます。この時期はなんだか大学での練習がばからしく感じて、自分で練習メニューを考えて独自の鍛え方をしたり、自分の頭と身体を使ってかなり遊んでいました。
そんな訳で、フォームは一回生のときよりも見かけ上美しくなり、大学の三回生の先輩から「フォームがきれいになり過ぎて、身体が追い付いてきていない」と評されるほど。確かにこの頃はよく転びました。結構スピードが出るようになったのですが、そのスピードを制御しきれないんです、特にコーナーで。MKさんの真似っこでバンクをかけようとするのですがかからないし、極めて不安定。なんだかんだで実はこの辺で一瞬成績が伸びて、また伸び悩むのですが、そこには大学卒業間際にようやく気付いた落とし穴がありました。自分のことは自分自身が一番見えないものです。今も本当にそうだと思います。
ちなみにMKさんも凄い選手なのですが、先輩方が代々つくってきてくださったご縁がありました。当時私達弱小チームはスピードスケートのメッカ愛知県のC大学のOBさんが面倒を見てくださっていまして、合宿も名古屋で組んでいました。そんな中で愛知代表の貸切練習になぜか混ぜてもらえたりして、オリンピック代表選手やユニバーシアード代表選手と同じリンクに上がることも珍しいことではありませんでした。関西でも、長野オリンピックで後に金メダルを取るNTくんはMKさんのクラブチームの後輩だったのでMKさんと一緒にいると私にも挨拶してくれましたし、隣県の兵庫県にはTNくんという文武両道で長野オリンピック1000m入賞した選手も合宿に参加してくれて、休憩時間は一緒に卓球したりしていました。

こういう超一流の方々との付き合いが普通にできてしまうスピードスケートっていったいなんだろう?とみんながみんな、そういうラッキーなポジションにつける訳ではないのですが、ラッキーなことに私ははまらざるを得ない状況に追いやられました。まあ、とにかく大学2回生のあるタイミングまでは自由人でした。あるタイミングまでは(笑)。

という訳で前半終了。長いっ!(笑)
後半に続きます(次でなんとか終えるつもりです。。)

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