「娑婆に出る」vol.2

入寮日はいつでしたでしょうか。骨折以降にもスケートの試合が確か4,5あったのですがもはや出場できない状況だったので、追いコンも終わり、都道府県対抗選手権@大阪の応援を終えたあたりで確か京都を離れたと思います。当時一回生の後輩Sくんが我が家に何度も来てくれて荷造りを本当に熱心に手伝ってくれました。そのお返しにあげたのはプロテイン粉末。私には全然効かず価値レスだったのですが、彼はその後ムキムキになりました。日頃の行いがよかったのでしょうか、笑。

ということもあり、同期の中では入寮のタイミングは早いほうだったと思います。最初は同期2,3人で一緒に食事していて、それがだんだん10名規模になっていった感じ。
そして恒例ではありますが、入社式の前日に寮の先輩方に随分遅くまで呑まされた記憶があります。いかにも昔っぽいエピソードで笑っちゃうのですが、今もしかしてそういう呑み文化が少ないとすると、あれは貴重だったと思います。もともとがしゃしゃり出るタイプの人間だったので最初は控え目にしておこうと思っていたのですが、ああいう空気のおかげで本性が割とすぐ明らかになったと思います。とはいえ、全国のいろんな大学・学部出身の人達と混じってみると自分のキャラがそれほど立っている訳じゃないんだな、と感じたので、それはそれでちょうどよかったのかもしれません。

で、遂に入社式。寮から同期が一斉に向かいましたが、私はまだ松葉杖。ただでさえ方向音痴がゆえに皆から後れを取り、これは真剣に焦りました。なんとかかんとか本社に到着して、会場の会議室では「座りやすい席に座っていいですよ」と人事の方から言われたのですが、これ以上目立ちたくないですしただ座っているだけなので自席でとおとなしくしていました。男女総勢50名くらいですかね。まだ社会的に好景気の余韻が若干残っていたのか同期の職種も幅広く散っていましたし、いいメンバーに出会えたと思っています。

翌日から新入社員研修。人事の担当が2,3名ついて、各講師との調整や新入社員への案内・指導をする形です。今ではさすがにそういうことはないと思うのですが、当時20名ほどいた女性の新入社員のうち技術系の一人を除いてみんな「一般職」ということで(今も、総合職とか一般職とかあるんですかね?)、私達の入社前に新人研修を終えるのです。会社が大学や専門学校側とどういう調整をしていたのか私は知らないのですが、おそらく2,3週間の女性向け新人研修を3月中に終えて、4月初旬の入社式直後に我々男性社員よりも一足先に配属となります。という訳で、私達の新人研修の世話をしてくださった人事部担当のうちのひとりが同期の女性社員だったのですが、まあ何を隠そう私の妻であります(笑)。この辺はあまり触れてもなんなので、さらっと書き流しておきます。

新人研修の講義は今は少し違うのかもしれませんが、当時は座学中心でまあ眠かったですね、寝ませんでしたが。ただ、プラントメーカーなので確か2週間程度工場実習があって、図面書きや溶接・研磨などの実技をいろいろやらせてもらえたのです。このものづくり体験はとても楽しかったですし、勉強になりました。研修の中で製作したのは比較的大きめのペン立てと文鎮。スケート靴のエッジの調整は非常に繊細なので4年間ほぼ毎日やってきて少しくらい手先が器用になっていてもよいはずなのですが天性の不器用は直らず。。。そんな中、不安全開で挑んだはずの作業が割とうまく行き、文鎮なんかは「誰が作ったの、これ!?」というくらい立派なものが完成してとても嬉しかったことを覚えています。配属後、使いもしないのにデスクに置いていましたし、今もこの家の中のどこかに潜んでいるはずです。

という訳で、同期との生活もうまく行き、研修もなんとか無事こなし、いよいよ配属となりました。明らかにされた配属先は例の大先輩Nさんがその春から新課長として率い始めた課でした。晴れて技術開発の担当です。正直、機械の「キ」の字も知らない私に務まるのかなぁ、という不安が大きかったのですが、そんな気持とは裏腹に周囲の期待がヤケにでかいことに気付きます。私が配属された部は当時も今も同社で最大勢力。当時は会社の売上の7割を稼ぎ出していました。その部の中に確か8つの課が並んでいて、各課の役割はもちろん違うと認識していましたが、配属された課だけはかなり異質だったのです。後にこの課は独立してひとつの部になることからも分かるのですが、言葉を選ばずに言えば、まあエリートが行く課なんだそうです。私は入社式で代表としてスピーチ等した二人にも入っていなかったので極めてフラットに構えていたのですが、配属先がそんなところとはまったくの想定外。そして、Nさんの前の課長Mさんが当時の新副部長。このMさん、Nさんが私のキャリアの中でいまだに尊敬している方です。それ以降、「尊敬」という言葉に相応しい方に私は出逢ったことがありません。

で、私の歓迎も含めたパーティがその課で開催されたのですが、元課長(新副部長)のお店チョイスでめちゃくちゃ高そうなフレンチ......。この間まで大学近傍や生協で500円程度のメシを食っていた青二才がいきなりこれって。。。しかも、私が名家の出身ならいざ知らず、広島の米農家がルーツですからね。東京に出てきて早速の洗礼です。座る席の選択にすら困り、ずいぶんと恐縮していると課の庶務を担当してくださっていたちょっとキツメ?の女性から「hello!さんって社内報の写真とかなり違うよね」と一言。いやあ、確かにあの写真は結構いい感じに撮れていて、でも間違いなく本人写真だし、というか新入社員って女性の先輩方からそんな感じで品定めされてるんですかぁ......とどんどん気が滅入っていきました。

という訳でオトナの付き合いはなかなか難しいぞ!

というのが入社した頃、4,5月の頃の感想です。そして、この後も社内で膨らむ期待は私を更に追い込んでいきます。あるプロジェクトに特命で従事していたMKさんから「hello!さんを是非ウチのプロジェクトに」というオファーがNさん宛に入ったのです。Nさんは二つ返事でOK。あるプロジェクトというのは先に書いた同社のオリジナル技術を欧州某国に売り込むという結構な重要プロジェクト。(今の私なら喜んで飛びつきますが、笑)
と言われましても、その技術の何たるかを小学生レベルでしか知らない訳ですし、確かに大学に入学するまでは英語が得意科目でしたが海外プロジェクトができるなんて保証はどこにもない訳ですし、ましてやプロジェクトメンバーは同社のプロフェッショナルばかりです。海外事業担当のMKさん、技術担当のEさん、海外プロモ担当のAさん、など少数精鋭。これにバックアップメンバーとして、例えばサンプルを使って技術実証するメンバーや試験体を分析するメンバーなどなど、全体で見ると社内のどれくらいのメンバーがこのプロジェクトに関わっていたか分からないほどです。

目だった貢献もなく過ぎていく毎日。私が働かなくともプロポーザルのドラフト作成は終わり、それが技術的エビデンスや相手方とのやり取りなどにより進化、深化していきます。相手の繁忙さを気に掛けず図々しく説明していただけば「なるほど、そういうことか」と何とか理解できるものの、自分から「こうしてはどうですか?」「私はこう思います!」といった主体的な取組みがまったくできず、それがものすごいプレッシャーや罪悪感や焦燥感に変わっていきます。

そんな中、あるとき当プロジェクトの「中止」・「解散」が告げられます。理由は書かないでおきますね。もう時効かと思いますが、ここに書いても仕方のないことなので(誰が悪い訳でもないです)。
そして、プロジェクトメンバーの皆さんはこの先どうなさるのかと思ったら、皆それぞれ新たな自分の仕事に向き合っていました。本当に「瞬時に」という感じです。
今思えば、組織ではなくてプロジェクトなので、オープンもクローズもそういうものだと理解できるのですが、新卒の当時は「何これ???涙......」とまったく理解できませんでした。
自らの行き場、置き場を失った私はこのプロジェクトメンバーに限らず、この会社に適応して働いていらっしゃる方々のことを凄く高い立派な壁のように感じ、心の置き場さえ失いました。
社会人一年生もはじめの段階にしてここまで追い込まれるとは我ながらまったく想定していませんでした。はっきり言って「社会をなめていた」と今ははっきりそう思います。

(続く)



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