三銀蔵

三銀蔵の片付けから、先祖が「表は坊人、裏が忍者」と言われる多賀大社の今はなき「坊人(ぼ…

三銀蔵

三銀蔵の片付けから、先祖が「表は坊人、裏が忍者」と言われる多賀大社の今はなき「坊人(ぼうにん)」だとわかり、「明智光秀が近江・多賀の佐目」出身だという資料に目が留まり、地元の口伝と一致する事から、通説とは違う角度から調べはじめた事を中心に書いていきます。

マガジン

  • 三銀蔵 多賀坊人と多賀大社

    三銀蔵は江戸時代まで甲賀小佐治の社僧(修験者)も兼ね、代々多賀信仰を全国に広めた「多賀坊人」の一族でした。その活動は多賀大社「多賀講」の基礎になっていきます。  明治の神仏分離政策の後、多賀に移り住み、急変する社会事情のなかで神主になります。この蔵は、文政10年(1827)に現在の多賀大社の参道に建てられていたものを、昭和8年(1933)三木銀治郎が買い受け移築し「三銀蔵」としての歴史が始まります。蔵に遺る数多くの古文書・資料から全国の多賀講、地域の皆様とのご縁を大切にしてきた事がわかります。  この屋敷の建物と、その後、多賀大社に移築された「文庫蔵」は、当時の戸主(車戸氏)が桜田門外の変後、桂小五郎に彦根藩の尊王の気持ちを伝え、密かに偵察に訪れた伊藤博文らを屋敷に留め置き、両藩の調停に奔走した明治維新の秘史を今に伝える記念物であることも、「三銀蔵」に遺された資料から判りました。

  • 佐目-歴史探索

    滋賀県多賀町の小さな山村の歴史を調べながら書いています。 八百万の生みの親、伊邪那岐大神まで行かなければわかない歴史の深さにヘトヘトになりながら、謎を一つずつ解明しています。自分のメモ代わりに、探しながら書いていますので、かなりマニアックに読みにくくなってしまいましたが、通説が違うのでないかという事も結構 発見できました。時々、妄想が入ります(笑)

  • 明智光秀 近江出身説

    明智光秀が 近江 多賀 佐目の出身であるという事を前提に 今まで研究されてこなかった地域の伝書、多賀大社、本願寺番方 法蔵寺佐目道場、六角氏との関係など、マニアックに検証したいと思います。

  • 明智光秀最古の出自の文献『江侍聞伝録』

最近の記事

多賀 飯盛木 昔と今 古絵葉書

飯盛木今年も SNSで、飯盛木と彼岸花の写真をたくさん見かけました。 男飯盛木(東) 女飯盛木(西・キリンビール側)と 2本あります。 飯盛木の読み方 「飯盛木」は、看板には「いいもりぎ」とありますが、 地元では「いもろぎ」とも 呼ばれています。 その他「いもろぎ」戦後の絵葉書には「イヒモリギ」とあります。 飯盛木は、多賀詣りのランドマーク 飯盛木は、昔の多賀詣りの参道沿いにあり、目印であると共に、お多賀杓子の由来やご利益を伝える「広告塔」でもありました。近江鉄道や昭

    • 佐目05-歴史探索 永源寺佐目の伝承

      永源寺の佐目は、永源寺ダムの下に沈んでいる。今回、佐目氏の事を調べるにあたり、その時の資料や写真を見たが、同じ名を持つ村に生まれた者として、住民の方のお気持ちを思うと心が痛む。 離れられても佐目区として自治会があるという事で了承を頂き、永源寺の「佐目文書」の写しを東近江市教育員会のご協力の元、撮影させて頂いた。 まだ、調べている途中なので、どうしようかと迷ったが、ネットで検索しても出て来ないので、私なんぞより、もっとちゃんと調べて頂ける方が現れてくる事を願って、現在 わかる

      • 佐目04-歴史探索 佐目氏の末路と木地師

        佐目01-歴史探索 「02-佐目氏は和氣氏より出づ犬上郡佐目村に住し氏とす」 に、多賀の佐目から、永源寺の佐目に「佐目和気氏」は引っ越した事を書いた。 いつ頃、なぜ移動したのか。その事で佐目はどうなったのか。そのあたりを探りたいと思うが、はてさて。 まずは、文献に残る「佐目殿」を追いたいと思う。 01-佐目氏は和気氏より出づ犬上郡左目村に住し依て氏となす近江愛智郡志. 巻2 昭和4年 滋賀県愛智郡教育会 国立国会図書館デジタルコレクション コマ番号 77 昭和4年に

        • お多賀杓子の由来と多賀坊人

          NHKの番組で、『なぜ、お玉は「お玉」いう?』と、お多賀杓子と多賀坊人の活躍を取り上げて下さいました。 答えは、「お多賀がブームになったから」と、多賀坊人の活躍が火付け役だったと。又、すごく大切な事を伝えて下さいました。さすが、NHK。 多賀坊人の蔵「三銀蔵(さんぎんぐら)」(母方本家)から出てきたもの物から、資料を作っていましたので、合わせてご紹介したいと思います。長くなりますので、目次だけでも 御覧ください。 01.「お多賀杓子」は、祈りが込められる唯一の道具番組で

        多賀 飯盛木 昔と今 古絵葉書

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        • 三銀蔵 多賀坊人と多賀大社
          2本
        • 佐目-歴史探索
          5本
        • 明智光秀 近江出身説
          17本
        • 明智光秀最古の出自の文献『江侍聞伝録』
          3本

        記事

          佐目03-歴史探索 古墳時代と犬上縣主

          ○○天皇(※○○年)の西暦は、便宜的に「炉辺談話より引用」しているので公式な年代ではありません。今回は特に、読むのが辛くなるややこしい神様の名前がいっぱい出てきます。 01-前回までのまとめさて、佐目01、02の歴史探索では ・佐目の和気殿は、皇室出身だろう事。 ・11代垂仁天皇から12代景行天皇およびヤマトタケルが日本を支配した時期、上記(※○○年)で表すと、西暦283年~323年(50年位後だという説もある)の間に佐目近辺の領土が与えらた和気殿が、地名から佐目和気氏

          佐目03-歴史探索 古墳時代と犬上縣主

          佐目02-歴史探索 縄文・弥生・古墳

          00-参考資料以下の資料を参考に、佐目の年表に犬上氏等の歴史を入れた4世紀までのメモを作った。○○天皇(※○○年)の西暦は、前回の最後に表を掲載した「炉辺談話より引用」しているので公式な年代ではないが、参考にした。 1.『古代の芹川、犬上川扇状地開発と多賀信仰』 小菅 一彦 著 本当は歴史家になりたかったという彦根市立病院の院長もされた小菅先生に頂いた多賀の古代を知る貴重な自費出版の本。以下(小菅) 2.『小野妹子・犬上御田鍬とそのふるさと』 安土城考古博物館にお勤めだっ

          佐目02-歴史探索 縄文・弥生・古墳

          佐目01-歴史探索 和気佐目殿と犬上君

          01-はじめに明智光秀近江出身説を調べる途中で、出てきた多賀町佐目の歴史。 残念ながら、佐目の村からは今の所、江戸以前の文書などは殆ど出てきていない。昭和の多賀町誌にも佐目文書というのはない。 しかし「ない」という訳ではなく、調べられていない、もしくは、詳らかにする事を拒んだのではないかと思われる。 先祖の歴史を知る中で、村に対しての小さな「誇り」がいくつも生まれ、縄文後期から人の営みが続いているのに、こんな便利になった世の中で、村が消滅に向かっているのは、実に申し訳ない気

          佐目01-歴史探索 和気佐目殿と犬上君

          G02-江侍聞伝録と近江の歴史と光秀

          前回 『江侍聞伝録』の研究1973年(昭和48年) 滋賀県立図書館司書 石川正知氏が、『滋賀県地方史研究紀要』第一号(上)・第二号(下)で『江侍聞伝録』全文を活字化されています。50年近く前です。 その後、 1976年(昭和51年)、つまり3年後に『近江史料シリーズ [54]』 滋賀県地方史研究家連絡会編 に 同じ石川氏が『淡海温故録について』と題し書かれている中で、『江侍聞伝録』についても解説されています。 まず、1973年『滋賀県地方史研究紀要』のには『江侍聞伝録』の

          G02-江侍聞伝録と近江の歴史と光秀

          判の兵庫 memo

          一、 永禄 十 二 年 己 巳 の 歳 より 翌年 午 の 七月 まで、 天 に 煙 の 出る 星 出来す。 また、 信玄 公 三十 一 歳 の 時分 より 召し 置 る ゝ 江州 石 寺 の 博士、 昔 の 晴 明 が 流れ にて 易者 なり。 なかにも 判 を よく 占 ひ 申す に つき て 判 の 兵庫 と 名乗る。 余 の 占 ひ をも 正法 に 仕り、 内典・外典 ともに 携 はり、 邪気 なる こと 聊か も なけれ ば、 信濃 国 水 内 郡 において、 百貫

          判の兵庫 memo

          G01-江侍聞伝録と近江の歴史と光秀

          とにかく、気になって仕方がなかった、光秀の出自について書いてある一番古い文書(今の所)『江侍聞伝録 (ごうじもんでんろく)』。 やっと手に入れたました。釈文と原文。 ・釈文( 古文書の文字を現代の文字にしたもの) 「滋賀県地方史研究紀要 第2号~第3号」 滋賀県地方史研究家連絡会編 滋賀県立図書館 石川正知 1973~1974年 これは、出版され 図書館にありました。 ・原文(滋賀県立図書館)の写真。 こちらは、ずっと非公開でしたが、2020年12月に公開。やった! 滋

          G01-江侍聞伝録と近江の歴史と光秀

          13.仏敵信長め!近江戦国山の道と光秀

          上のトップの画像は、石山合戦がはじまる直前に、左女谷(佐目)道場に本願寺から届いた文書と、十兵衛屋敷跡から見える「陣屋の山」。白い三角あたりが「信長陣前桜」があったあたりかと思われます。 今回は、佐目と本願寺と光秀の関係を追いたいと思います。 1. 09.明智神社と、光秀近江出身説 これに続く話しを書こうと思って、色々とつなぎ合わせてきたら、13.まできてしまいました。 1575年 (天正3年) 越前、東大味の明智神社の伝承は、柴田勝家が一向一揆を鎮めるために、兵を送り

          13.仏敵信長め!近江戦国山の道と光秀

          12.戦国最後の戦いの舞台裏

          前回は、義昭上洛を機会に、信長がグイグイ近江に手を入れてきて、それに光秀と多賀がどう関係していたかを中心にお話しました。 1. 戦国時代、最後の「観音寺城の戦い」 すっかり、説明を忘れていましたが、そもそも、義昭を連れての信長の上洛というのは、既に将軍が決まってたのに、ムリクリに突っ込んだという話になります。どっちみち、三好三人衆であろが、信長であろうが、将軍はお飾りのつもりだったのですよね。  1568年(永禄11年)2月8日 足利義輝を暗殺した三好三人衆が、義輝・義昭

          12.戦国最後の戦いの舞台裏

          近江の歴史を偽りで翻弄した『江源武鑑』って、ほんとに疑っていいの?

          今回も、一般の方には、あまり面白い内容ではありませんが、大ごとになりました(笑) 前回の 11.初登場の光秀・・・の中で 「近江の歴史を偽りで翻弄したと有名な『江源武鑑』にも、多賀の武士(楢崎氏、種村氏、久徳氏)が上洛に同行したとあります。」と書きました。 歴史を知っている人には「『江源武鑑(こうげんぶかん)』には気をつけろ!」と言われます。こんな中から引用しようものなら「ダメな奴」とレッテルを貼られる空気を感じますので、かなり勇気がいります。 私自身は、どんな評価を受

          近江の歴史を偽りで翻弄した『江源武鑑』って、ほんとに疑っていいの?

          11.初登場の光秀と多賀と信長上洛

          基本的に私のこの投稿の欠陥は、六角氏と明智家がつながっていたという仮定を元に書いていますし、そもそも、殆ど専門家の本などを読んでいないのと、戦国好きという訳ではなかったので、基礎的な事を全く知らず辻褄が合わない所も出てくるかもしれません。 又、光秀はじめ、地元にかかわる方はエコ贔屓しますし、近江出身説に無理やり持っていこうという深層心理も働いてしまう事をご理解の上(笑) 、温かくゆるやかな気持ちで読んで頂ければ、幸いです。 1.足利義輝 暗殺される1565年(永禄8年)

          11.初登場の光秀と多賀と信長上洛

          10.明智と六角と、忍者・多賀坊人誕生

          前回 09.明智神社と、光秀近江出身説  では、光秀が生まれる前の佐目のポジションについてお話しました。 今回は、光秀の一生を理解する上で必要なバックボーンについてお話します。最初にお断りしておきますと、もちろん 「光秀が、近江の多賀の佐目」で育っていた という強引な視点と、光秀、近江守護六角氏、本願寺、地元土豪をエコ贔屓するのは言うまでもありません(笑) 1.近江守護 佐々木六角氏とは ドラマでは、どうしても信長・秀吉など天下とった、つまり近江を手に入れた人が主人公に

          10.明智と六角と、忍者・多賀坊人誕生

          09.明智神社と、光秀近江出身説

          なかなかnoteに書き込む余裕がなく、久しぶりになってしまいました。 〇公式 明智光秀近江出身説 佐目十兵衛会のwebサイト開設 〇所JAPANにて全国放送で 磯田先生に「黒歴史」と!  その他、イベント・メディア・活動報告 〇地元の伝承に特化したマニアックな冊子 発売  #『明智十兵衛光秀 謎多きルーツの迫る 多賀出身説!』 http://same-jubei.com/ HPから ご依頼頂けます。 明智光秀近江出身説 佐目十兵衛会の 各サイトは以下です。  ◆公式 ホ

          09.明智神社と、光秀近江出身説