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明智光秀 近江出身説

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明智光秀が 近江 多賀 佐目の出身であるという事を前提に 今まで研究されてこなかった地域の伝書、多賀大社、本願寺番方 法蔵寺佐目道場、六角氏との関係など、マニアックに検証したいと… もっと読む
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佐目04-歴史探索 佐目氏の末路と木地師

佐目01-歴史探索 「02-佐目氏は和氣氏より出づ犬上郡佐目村に住し氏とす」 に、多賀の佐目から、永源寺の佐目に「佐目和気氏」は引っ越した事を書いた。 いつ頃、なぜ移動したのか。その事で佐目はどうなったのか。そのあたりを探りたいと思うが、はてさて。 まずは、文献に残る「佐目殿」を追いたいと思う。 01-佐目氏は和気氏より出づ犬上郡左目村に住し依て氏となす近江愛智郡志. 巻2 昭和4年 滋賀県愛智郡教育会 国立国会図書館デジタルコレクション コマ番号 77 昭和4年に

G02-江侍聞伝録と近江の歴史と光秀

前回 『江侍聞伝録』の研究1973年(昭和48年) 滋賀県立図書館司書 石川正知氏が、『滋賀県地方史研究紀要』第一号(上)・第二号(下)で『江侍聞伝録』全文を活字化されています。50年近く前です。 その後、 1976年(昭和51年)、つまり3年後に『近江史料シリーズ [54]』 滋賀県地方史研究家連絡会編 に 同じ石川氏が『淡海温故録について』と題し書かれている中で、『江侍聞伝録』についても解説されています。 まず、1973年『滋賀県地方史研究紀要』のには『江侍聞伝録』の

G01-江侍聞伝録と近江の歴史と光秀

とにかく、気になって仕方がなかった、光秀の出自について書いてある一番古い文書(今の所)『江侍聞伝録 (ごうじもんでんろく)』。 やっと手に入れたました。釈文と原文。 ・釈文( 古文書の文字を現代の文字にしたもの) 「滋賀県地方史研究紀要 第2号~第3号」 滋賀県地方史研究家連絡会編 滋賀県立図書館 石川正知 1973~1974年 これは、出版され 図書館にありました。 ・原文(滋賀県立図書館)の写真。 こちらは、ずっと非公開でしたが、2020年12月に公開。やった! 滋

12.戦国最後の戦いの舞台裏

前回は、義昭上洛を機会に、信長がグイグイ近江に手を入れてきて、それに光秀と多賀がどう関係していたかを中心にお話しました。 1. 戦国時代、最後の「観音寺城の戦い」 すっかり、説明を忘れていましたが、そもそも、義昭を連れての信長の上洛というのは、既に将軍が決まってたのに、ムリクリに突っ込んだという話になります。どっちみち、三好三人衆であろが、信長であろうが、将軍はお飾りのつもりだったのですよね。  1568年(永禄11年)2月8日 足利義輝を暗殺した三好三人衆が、義輝・義昭

13.仏敵信長め!近江戦国山の道と光秀

上のトップの画像は、石山合戦がはじまる直前に、左女谷(佐目)道場に本願寺から届いた文書と、十兵衛屋敷跡から見える「陣屋の山」。白い三角あたりが「信長陣前桜」があったあたりかと思われます。 今回は、佐目と本願寺と光秀の関係を追いたいと思います。 1. 09.明智神社と、光秀近江出身説 これに続く話しを書こうと思って、色々とつなぎ合わせてきたら、13.まできてしまいました。 1575年 (天正3年) 越前、東大味の明智神社の伝承は、柴田勝家が一向一揆を鎮めるために、兵を送り

11.初登場の光秀と多賀と信長上洛

基本的に私のこの投稿の欠陥は、六角氏と明智家がつながっていたという仮定を元に書いていますし、そもそも、殆ど専門家の本などを読んでいないのと、戦国好きという訳ではなかったので、基礎的な事を全く知らず辻褄が合わない所も出てくるかもしれません。 又、光秀はじめ、地元にかかわる方はエコ贔屓しますし、近江出身説に無理やり持っていこうという深層心理も働いてしまう事をご理解の上(笑) 、温かくゆるやかな気持ちで読んで頂ければ、幸いです。 1.足利義輝 暗殺される1565年(永禄8年)

10.明智と六角と、忍者・多賀坊人誕生

前回 09.明智神社と、光秀近江出身説  では、光秀が生まれる前の佐目のポジションについてお話しました。 今回は、光秀の一生を理解する上で必要なバックボーンについてお話します。最初にお断りしておきますと、もちろん 「光秀が、近江の多賀の佐目」で育っていた という強引な視点と、光秀、近江守護六角氏、本願寺、地元土豪をエコ贔屓するのは言うまでもありません(笑) 1.近江守護 佐々木六角氏とは ドラマでは、どうしても信長・秀吉など天下とった、つまり近江を手に入れた人が主人公に

09.明智神社と、光秀近江出身説

なかなかnoteに書き込む余裕がなく、久しぶりになってしまいました。 〇公式 明智光秀近江出身説 佐目十兵衛会のwebサイト開設 〇所JAPANにて全国放送で 磯田先生に「黒歴史」と!  その他、イベント・メディア・活動報告 〇地元の伝承に特化したマニアックな冊子 発売  #『明智十兵衛光秀 謎多きルーツの迫る 多賀出身説!』 http://same-jubei.com/ HPから ご依頼頂けます。 明智光秀近江出身説 佐目十兵衛会の 各サイトは以下です。  ◆公式 ホ

明智光秀のWikipediaの記述が変わった!

何かと、日々お世話になっている『ウィキペディア(Wikipedia)』 もちろん、明智光秀公が佐目出身という古文書を見た時に検索しました。 今となっては、すっかり忘れてしまいましたが、佐目に関係する記事はほんの少し、脚注程度に載っている感じでした。でも、抹殺されずに書かれていて、とても安堵した事を覚えています。 昨夜、ふと気になる事があってGoogleで検索しました。と、言っても「明智光秀 + 〇〇」の○○が、マニアック過ぎて 自分のサイトやこのNOTEの記事が検索に引っ掛

08.出てきた!隠された「明智光秀の記録帳」

佐目集落の歴史を調べる集まりがあった。 現在、佐目の歴史を書き遺してある資料は既に亡くなられいる田畑喜與門氏が書かれた物だけだった。そこには、明智光秀に関する伝承は載っていない上に、江戸時代の記録もほぼない。佐目の歴史は、多賀町誌を見ても殆どなく、各家を回って調べられてた様子もないように思う。 昔の事はお寺に聞けと言われるが、室町、江戸の頃は違うお寺だったので、その当時の事は現在わからない。突撃訪問してもムダという事だ。 そんな状況の中で田畑氏の息子さんが、持ってこられ

07.本願寺と佐目道場と光秀

『淡海温故録』に 明智十左衛門が土岐成頼に背き、六角高頼を頼って2~3代もの間、佐目に住んだとあり、息子である明智十兵衛光秀・・・とあります。『淡海温故録』がウソかマコトかは、わかりませんが これを元に いつやってきたかは、こちらのサイトで検証しています。一応、1480年と仮定してみました。 今日の本題は、浄土真宗 本願寺と 明智家の関係についてです。1470年 近江をほぼ二分して戦っていた佐々木京極と佐々木六角高頼。六角高頼は、京極氏が内乱をはじめた期を見てか、まずは佐目

06.まずい! 明智十兵衛光秀の家紋って?

あーどうしょう。 先日、井伊美術に明智光秀公から一時期家臣だった木俣守勝がもらったという具足櫃に「桔梗紋」が入っているのを見つけました。 あらカワイイ! などと tweetした後に まてよ! と気が付いてしまいました。単純に「水色桔梗紋」で検索して、光秀公のご子孫さんが書かれた本の表紙、『美濃源氏 土岐氏累代記』(S57)もチェックして、既に看板にまでしてしまった明智家の家紋。 そう、違うのよ。。。桔梗紋なので、もちろん桔梗の花なんですが、確かに具足櫃(箱)の方が、桔梗の

05.更に古い、光秀「犬上衆旧き好しみある故」

04.明智光秀公の一番古い出自の文献 にて 『淡海温故録』は、貞享年間(1684-88) 『江侍伝聞録』は、寛文12年(1672) と、今のところは出自の一番古い伝承とお伝えしました。 因みに、 いわゆる作り話でありながら、後々色々な伝承に登場する『明智軍記』は、江戸時代中期の元禄初から15年(1688年~1702年)で、 質が高いと言われている『近江輿地志略』は、1734年成立なのだそうです。 この『近江輿地志略』の佐目村の所にも、『淡海温故録』に書かれていた事を、ズバ

04.明智光秀公の一番古い出自の文献

『淡海温故録』は、貞享年間(1684-88)に 江州白頭翁により書かれ、彦根井伊公へ献上された文献です。1582年が本能寺の変なので約100年後という事になりますが、明智光秀の代表的な伝記 高柳光寿『明智光秀』(1958)が 出自について採用した『綿考輯録(細川家記)』は、更に90年以上後の安永7年(1778)編さんされた文献なのだそうです。 『淡海温故録』の内容の特徴としては、郡別村別の記載形式で 地誌の体裁を取りながら、それぞれの地域における中世の土豪・地頭の家系、特に