03.光秀と十兵衛は、どんな関係?

2019年10月、滋賀県と多賀町の教育委員会文化財課の方々が「十兵衛屋敷跡」を見に来て下さり、私はというと、そこからバタバタと講座に引っ張り出され、地域(多賀町佐目)の皆さんは手弁当で「とりあえず、看板はいるわなぁ」と、張りきり出し、看板が出来たのが3月。Googleさんから許可も頂いて、つい先日マップに掲載して頂いたところです。

看板の後ろ、下あたりの緑の網は、鹿と猿よけ。山間部なので獣害がひどくて、人間がオリに入って畑をしています。(昼間や人がいる時は、ほぼ出て来ませんので安心して下さい。)

「十兵衛屋敷跡」と言っても、この間まで ただの耕作放棄地。山が差し迫り、この場所は日照がとれないらしい。看板が完成し写真を撮っていると、横の畑のバアさんが、檻(!)の中から

「この 十兵衛さんと 光秀さんは親子かいな?」
と。おーーー! そうだったのか・・・。

「明智光秀」と私たちは言っているけれど、「光秀」は諱(いみな)と言って、基本は亡くなってからの名前で、生前は親か主君(天皇含む)があらたまった時に使う名で、普通は「十兵衛」と呼ばれていたらしい。

「明智十兵衛光秀なんよ! おばちゃん!どっちも、光秀さんなんよ」

専門家曰く、口伝で「十兵衛屋敷」とだけ伝わっている事が、飾り気もなく返って信憑性があるとの事。なるほどぉ。

ただ「十兵衛」さんは、五万といた名前なので、それってどうよ!という事なのですが、この土地の持ち主の「見津」さんは、十兵衛屋敷の存在の他に
『見津という名字は、光秀公の「光(みつ)」から、「見津(みつ)」をもらい、「みつ」と読むのはおそれ多いので「けんつ」と読んだ』と、口伝で伝えられてきたそうです。

名字を光秀公からもらったのか、明治になって名字をつける時に、いわれに基づいて(勝手に)つけたのかは 今のところ定かではありませんが、どちらにせよ 密かに「明智光秀」と関係があった事を誇りに思い、明智家がこの地を離れた後も誉れとして、口伝で伝えてきた事は紛れもない事実で、光秀公の2~3代前の「明智十左衛門」さんが、美濃・土岐から近江・多賀の佐目にやってきてから、500年以上の伝承があるという奇跡に驚嘆しました。

それもほぼ、見津家周辺しか知らず、明治以降「謀反人」とレッテルを貼られた歴史の闇の深さも知りました。

とか言いながら、実は私、疑り深いのです。なんとなく、佐目の口伝も知っていたのだけど、胡散臭いと思っていたので、大河ドラマに明智光秀が決まるまで「スルー」してきましたの。

つづく・・・

この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?気軽にクリエイターを支援できます。

1

三銀蔵

三銀蔵の片付けから、先祖が「表は坊人、裏が忍者」と言われる多賀大社の今はなき「坊人(ぼうにん)」だとわかり、「明智光秀が近江・多賀の佐目」出身だとてう資料に目が留まり、地元の口伝と一致する事から、通説とは違う角度から調べはじめた事を中心に書いていきます。

明智光秀 多賀出身説

コメントを投稿するには、 ログイン または 会員登録 をする必要があります。