『ドライブ・マイ・カー』




『ドライブ・マイ・カー』
絶賛公開中🎥🎥🎥🎥
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【諦念としての希望】
言語という媒体は、とても便利だ。
我々は他者により正確に意図を伝える為に
言語をよく使う。
しかし人間には非言語的な意思疎通の手段も存在する。
そして非言語的な表現の方が、
得てして真実を示すことも多い。、
本来自己の感情や意図を
他者に伝えるという目的があり、
そのための手段として言語や非言語を用いる。
つまり言語はあくまで手段でしかない。
"話し合えばわかる”と人は言うが、
最も近接したパートナーや友人たちと
理解し合えないことなど日常茶飯事だろう。
我々は言語を基に意思疎通をすることが出来るが、
言語を用いても理解し合えない場面も
存在するのである。
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本作で描かれる舞台では、
多言語が交錯する形で会話が進捗する。
出演者も多国籍、他言語(手話を含む)であり、
異言語間でのコミュニケーションの可能性を
希望的に描く。
まさにバベルの塔への美しい反論である。
私達人類は、異なる言語を用いたとしても
意思疎通が可能であると。
これはおそらく真ではないかと思う。
しかし本作では他者は
理解し得ない存在として描かれる。
たとえ言葉が通じなくても心が通じ合える
可能性を示唆するが、
同時に心が通じ合えない真実をも提示する。
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最も近しい人間関係であれば、
我々は理解し合えるものと
思い込んでしまうのではないか?
夫婦間であったり、家族間であったり。
だが人間はどこまで行っても他者にはなれない。
つまり他者を本当に理解する事など、
出来ないというのもまた真である。
この真実は残酷さを帯びているように思える。
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他者を理解できるという思い込みは、
同時に理解できない存在だと気づいた時に
失望を与えるきっかけになる。
隠し事があった時、嘘をつかれた時
自分の知らない一面を見てしまった時。
我々は失望し、他者を責めてしまう。
だがこれはあまりに傲慢な態度かもしれない。
自分で勝手に他者の理想像を
創造しているに過ぎないからである。
他者が自己の理想像から乖離した時、
自分の落ち度を認める代わりに他者を非難してしまう。
これは他者にベクトルが向いているようで、
自己の誤ちや信念が崩壊するのを
恐れている現象ではないか?
自己を信頼出来ない者ほど、他者を信頼出来ない。
自らを空っぽだと表現した高槻(岡田将生)の
コミュニケーション手段の稚拙さも
この主張を示唆しているのだと思う。
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家福(西島秀俊)は
他者を理解出来ない存在として認識し、
その事実を受容する事から再起する。
他者は自己の理想を投影した存在ではなく、
自己とは完全なる別個の個体であり、
共同体になり得ないという事実。
この事実に気づけた時、
我々は自分の理想と乖離した他者を
認めることが出来ない苦しみから解放される。
自己の他者への幻影を取り去り、
そのままの姿を信じることが出来た時、
より快適な意思疎通が
可能になるのかもしれない。
ラスト、
人と犬との関係を描いたのは
完全には理解し得ないという存在という
理想的な例として描かれているのかもしれない。
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