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天守閣エレベーターとバリアフリー

G20で「お城にエレベーター付けちゃったよ」発言から名古屋城にエレベーター付ける?付けない?の話をみた。


大阪城にエレベーター設置 首相「大きなミス」 G20あいさつhttps://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201906/CK2019063002000121.html

とかからです。

この発言に対して非難轟々だがそれはそれとして、

名古屋城の件の彼らが主張しているのは「公共のものなので障がい者も天守閣行けるようするべき。エレベーターが必要です!」という理解でいいのだろうか。

天守閣に入りたい、天守閣からの眺めを堪能したい、という気持ちはわかるけど、その為にそこに行くための経路がサイバネティックされるのは彼らとしては良いのだろうか?
極端なこと言えば低層階は商業施設で天守閣だけ忠実に…ということになったらどう思うんだろか、という疑問がわいてくる。

これは『程度の問題』だったり『お城の価値』をどう見ているかによるのかもしれない。

『歴史的価値』を重視するなら、より忠実に再現・復元するべきだ。『程度の問題』というのはどこの城だったか忘れたが、ポップな展示や顔はめパネルがあって興ざめしたことはあり、歴史的な資料の展示程度であればと思うが、もと厳しい目で見れば「展示のためのガラスケース」すら不要で無粋なものとなる。

『価値』に付け加えると、『城の中の様子』や『眺望』が重要であれば、そこに多くの人がいけるようにするべきだが、『外観さえ忠実であればよい』と思うなら中がどうなっていようと関係ない。『全てにおいて当時の姿を楽しめるようにするべき』であれば城の外であっても、その周囲で近代的なイベントはやるべきじゃない(極論です)。

それはそうと「天守閣に登るチャンス」がチラつかされた為に心が乱された人もいるんじゃないだろうか。

名古屋城にエレベーターを付けてもらおうと、かなりの活動がなされてきたようだけど、その中のどれくらいの人が以前から天守閣に憧れていたのだろうか。また、エレベーターが付いた後にどれくらいのメンバーが実際に天守閣に登り、堪能するのだろうか。
彼らが自己の欲求、権利主張のためだけに活動しているのではないだろうから、彼ら自身がエレベーターに乗ることがなくても構わないと思う。だが、個人レベルの話をすれば、元々興味薄かったならそのまま欲望は忘れた方が悟りの道の為には良いと思ってしまう。

なまじ「天守閣に登るチャンス」がチラつかされた為に心が乱された人もいるんじゃないだろうか。

普段何も感じてなくても

「今度、市は新しく公共建築物をつくる予定です。しかし、それはあなたたちのような足腰が不自由な人は入れないような構造ですよ!」

と叫ばれれば、戦いたくなるだろう。知らぬが仏というか、そういわれると特に興味のなかった他の建造物にまでに怒りがわいてくる。無駄に争いが生み出されたように感じてしまう。

エレベーターの為に予算はいくら上がる?その予算で地下鉄のエレベーター増やした方が、より多く人に恩恵があるような気がする。

「不便(マイナス)を無くす」「楽しみ(プラス)を増やす」を単純に比較するべきではないが、エレベーター乗る為に駅員さんに助けてもらい、かなりの遠回りして移動しているのを見かける。普段の生活を考えるなら、その予算を公共交通施設に投下した方が有意義ではあると思う。

(かと言って、行政として市民の声を無視してはいけないことではない。一部の人達の権利をないがしろにしていいとはいけない。)

そもそもバリアフリーってなんだろう

エレベーター付ければOKなのか。

赤ちゃん連れの人にも…と思えばオムツ替える場所欲しい。

オストメイトの設備が必要な人もいる。

これらが天守閣に必要はなくてもその近くには欲しい。

天守閣まで並んだりするだろうけど、長時間並ぶことが難しい人もいる。人混みに行けない人もいる。

そういう人たちを見て「それなら行くな!」と言うのと

「階段登れないなら行くな!」と言うのと、どう違うのか。

事故で骨折してたら「行くな!」と思うけど、その線引きはどうすればいいのだろうか。「高所恐怖症だから天守閣を低めにして欲しい」とか「行きたいけど仕事で行けないからなんとかしろ」とか「入場料が高いからどうにかしろ」とかそんなことまで考えてしまう。

「みんなのための公共物」を文字通り「全員」とするのか、どこまで「最大多数の最大幸福」を目指すのか。難しい課題だ。


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