見出し画像

多様な生き方が認められる社会

最近、「内向型人間」という言葉を見かけるようになった。簡単に言えば自分の内側に世界をつくるのが得意な人間のこと。一方「外向型人間」という言葉もある、こっちは自分の外側に世界をつくるのが得意な人間のこと。かくいう僕はどちらかと言えば内向型人間に近い傾向があって、大勢で過ごすより少人数や1人でいるときのほうが断然リラックスして休むことができるし、パーティ等に参加するとすぐ疲れてしまう…。

〈好き勝手に生きるということ〉

内向型と外向型を多数派と少数派で分けるなら僕のような内向型が少数派にあたるんだろう。そこで思うのが今の社会はそういった少数派の生き方に関してあまり寛容でないんじゃないかなぁ、ということ。グローバル化や多様性という言葉が横行する今でも同性婚に対する理解がない人がいたり、結婚しなくてもいいと思っている人に対して結婚を強制するなんて話もある。もっと言及するなら大学への進学だってそうだ、今の世の中には「高校を卒業したら『普通』は大学に行く、だから大学に行くべき」「『普通』は大人になってからは大学には行かない」なんて考えが未だに蔓延っている。『普通』なんて結局のところ『多数派』なだけなのに…。みんな「多様性」という言葉を口にするばかりで本当の意味での多様性なんてあまり受け入れられていないのが現実なように感じる。


なら結局、本当の意味で「多様性を受け入れる」ってどういうことなんだろうか?


僕はその答えは2通りあると思う、それは「『知らない』を楽しむ」ことと「干渉しないこと」

もし目の前に自分と全く違うタイプの人間がいたとする。もしかしたら趣味も性格も何も一致しないかもしれない。でもそれってある意味面白いことだと思う。なぜならその目の前の人間が自分じゃ見られなかった景色を確実に知っているから。「知らない」を知ろうとする、知りたいと思う気持ちがあれば少しは多様性を受け入れやすくなるのかなと思う。

それでも受け入れられないなら干渉しない。「多様性を受け入れる」というのは結局のところ「相手の個性を絶対的に肯定する」なんていう難しいものではなくて「相手の個性をしっかりと認知すること」なのだと思う。接してみて、触れ合ってみて、それでも自分とは合わないのなら「あなたの個性のことはしっかり認知した」というところまで持っていってあとは干渉しなければいいのだ、「この世界には自分とは全く異なる特徴や背景を持っている人間がいる」というのを理解できた時点でもう「多様性を受け入れた」ことになるのだと思う。


〈人間にしかできない、好き勝手でも調和の取れた生き方〉

ここからは個人的な話にはなるけど、自分は「好き勝手生きる」のが人間の生き方だと思ってる。「普通」に縛られず、やりたいことをやる、やる必要がない、やりたくないならやらない。もしかしたらこんな生き方では衝突があるのかもしれないけど、そのときに妥協点を話し合って折り合いをつけられるのが人間にしかできないに生き方だと思う。


もっと個性が主張できて、個性が生かされる世の中になったらなぁ〜!


#こんな社会だったらいいな #コンテスト

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?