見出し画像

黒いミルクの域 ――パウル・ツェラン、あるいは詩についての短評―――

 あけがたの黒いミルク僕らはそれを夕方に飲む
 僕らはそれを昼に朝に飲む僕らはそれを夜中に飲む
 僕らは飲むそしてまた飲む……
「死のフーガ」(『パウル・ツェラン散文集』飯吉光夫編訳,2012,白水社)

 好きな詩人は、と問われた際、真っ先に思い浮かぶのは松浦寿輝だ。過去、とあるイベントの際に松浦の作品について文章を書いた。

 "教授の声で朗読される「同居」をきき、レジュメにプリントされた言葉を追いながら、身もだえするような疼きに耐えた。指先を水面にさしいれるように、いますぐこのうつくしいものにどっぷり浸りたい。ふかく落ちておぼれて、肺をつまらせたい。
 講義後、じぶんの声をつかって朗読してみた。現代詩文庫を購い、なんどもなんども目を通した。手近なノートに、「階下」「幼年」「同居」「別居」「逢引」を書き写した。まだ足りない。声にだして読んでみたり、手をうごかして書いてみたり。創作の軌跡をなぞる疑似的な再生産のいとなみは、疼きを静めるどころか、なお甘くじれったく心臓をよじらせるだけだった。
 湖面のひかりをみつめるように、紙面の言葉を眺めた。どうすればもっと、言葉の近くにゆけるのだろう。水辺へおりるようにして、詩篇の傍に寄りたかった。 
 (中略)
 言葉がわたしにふれたように、わたしも言葉にふれてみたい。
 手を尽くし、声を尽くし、それでもとどかず、渇きはいや増す。あがきはいつしか軌跡となり、いくつかの小説へと分裂していった。
 松浦の詩と出会って、数年が経つ。疼きは未だ止まず、わたしは言葉の破片をまき散らしながら、水の名前を呼んでいる。そんな呼び求めなど意に介さず、水辺はなおも遠く、いよいよ遠く、きららかに澄みとおっている。"

 どうしようもないほど好きな作品に出会ったとき、どのようにその「好き」を発散するのか。さまざまな方法があるだろうけれど、私のやり方は「ノートに手で書き写す」というものだ。そうして溜まったノートは、高校時代から合わせて二十冊ほどになる。
 小説だけではなく、短歌や詩もたくさん書き写してきた。松浦寿輝、蜂飼耳、望月遊馬、小笠原鳥類、最果タヒ、八木重吉。時代も文体もばらばらだけど、好きな詩人は確かにいる。そういえば、短歌をつくったことはあるが、詩を書いたことはない。書けるとも思っていない。言葉を置けば、それだけで作品として成立してしまう領域。果てなく拡がる自由は、私にとってただただ恐ろしい。ひとまたたきの予断も許さない、絶対真空のような世界。そんな場所で、詩人たちは言葉のオブジェを精製する。きわどく危うい手つきで、精妙に練り上げられた言葉の群れ。
 パウル・ツェランの詩をみたとき、そんな真空域で生み落とされた純粋結晶の、ある種の完成形だと思った。外国語の詩をどこまで本質的に鑑賞できるのかという疑問が瞬時に溶け消えるほどの、ひびきのうつくしさ。とくに「死のフーガ」は圧巻だった。リフレインされる音律に、「黒いミルク」という鮮烈なイメージ。宮川敦『絵画とその影』(2007,みすず書房)に引用されていた、バシュラールの一節を思い出した。

 "実際、物質の想像力が白さの下に暗いねりものを感じるためには、このねばついた白さ、実質のある白さをいくらか夢みれば充分なのだ。想像力をして、この液体の表面に流れる、ある青いかげりをくろずませ、《ミルクのひそかな黒さ》へ向う道を見出させるものは、白さの下に、白さの裏を見ようとするこの欲望である。"

 覚えているのは一節だけで、前後の文章や文脈は失念してしまった。ツェランと関係があるのかどうかもわからない。けれど私は、それ自体一つの詩であるようなこの一節に、ツェランの詩の印象を仮託した。「白さの下に、白さの裏を見ようとするこの欲望」というフレーズが、言語の臓腑をまさぐろうとする詩人の欲望を想起させる。
 ツェランの詩の字面が呼び寄せるイメージの豊潤さもさることながら、声に出したときのえもいえぬ快さはいったい何なんだろう。他者の言葉をノートに書き写すという行為が再生産、疑似創作の快楽を得るための営みだとするならば、朗読はみずからの声帯(=身体)を用いて、他者の言葉と己の肉を一体化させる遊戯と呼べるだろう。作品のなかで何度もくりかえされる「あなた」「おまえ」という語(Du)は、肉声にのせると心地よいリズムを生み出すとともに、ある種の断絶、距離を感じさせる。親称二人称は、同時に神への呼びかけでもあるという。求めながら、呼びながら、決してとどかない。書き写しても、声にのせても、まだ足りない。それは詩の言葉にたいする私自身の希求に重なる。
 詩。それは私にとって絶対的な領域、聖なる域だ。黒いミルクが流れるその王国に、私はどうしても手出しできない。焦がれ、ながめることしかできない苦痛が、私の内部に甘美にかなしく反響する。どれほど読んでも、どれほど見つめても届かないその透徹した世界を、しかしひとまたたきでも垣間見ることのできる機会に恵まれたのは、僥倖というほかない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?